差別とはいかなることか、あるいは正義の暴力について。
世の中にはいろいろな差別があるけれど、一般的に差別とはどういうことなのか、ちょっと考えてみました。差別のメタ理論ですね。さしあたり、僕は差別においては、二つの特徴があると考えました。理論的用語と日常用語の二つの言葉をまぜこぜにして話したいと思います。
2011-06-15 02:45:17差別の特徴 ①他者を固定化された認知カテゴリーで把握すること。②他者を自分よりも劣位だとみなし、それゆえ自分や自分と対等のものに対しては許さない形において、その相手に対する暴力的行為(教化も含む)を正当化すること。
2011-06-15 02:53:12わかりやすく言い直せばこういうこと。 ①相手に対する決めつけ。「おまえは女性だから頭が悪い」「京大生だから頭が固いに違いない」「朝鮮人だから卑屈だ」「おまえは男だから女を見下してるに違いない」。もちろん、京大生で頭固い人はいるだろうし、女性を見下している男もいる。
2011-06-15 02:57:23このリストはどこまでも長くできる。「おまえはフェミニストだから男を憎んでるんだろ」とか、「おまえが加害者に決まってるんだから」とか。ところで、一般的に言えば、属性とその人の特徴は、直接の因果関係はないし、ある程度の相関関係はあるかもしれないけど(女性の方がIQが平均して高いとか)
2011-06-15 03:02:31百歩譲っても、例外はいくらでもある。要するに、どんな属性の人でも、人それぞれだということ。ところが、そのような色眼鏡で相手に見られると、自分が一人の人間として接されることがなくなる。なにを言っても「加害者が言うことは信用できない」とか言われて、耳を塞がれてしまう。
2011-06-15 03:05:50大切なことは、これが認知的カテゴリーだということだ。つまり、「あいつは売春婦だから汚い」とか思っているのは、誰でもなく、自分であるということ。偏見というのは確かに社会的現象だけれど、それを担っているのは一人一人の人間であって、取り払うのはその人個人でしかありえない。
2011-06-15 03:10:29つまり、偏見は、自分の認知枠組みでしかないものを、客観的事実とか「世間の常識」とか共同主観的カテゴリーであると誤って考えることから生まれ、かつその信念によって強固になる。
2011-06-15 03:12:39ともあれ、「偏見」だけで差別と言えるかどうかは疑問の余地がある。たとえば、「彼は東大教授だから彼が言うことは全部正しいんだ」というのは、もちろん偏見であって、相手を見下すのと同じぐらい有害だけれど、それはふつう差別とは言わない。差別は、基本的には、相手を自分より劣位に置くから。
2011-06-15 03:16:22そこで②の論点にうつるわけだけれど、やはり、そこでの問題の本質は非対称性ではないかと思うわけです。つまり、相手がこれこれだから自分より劣っている。さらに、だから彼は攻撃されて当然だ、ということ。逆に言えば、自分はそういう属性をもっていないから、そのように扱われるのは不当であると。
2011-06-15 03:22:33「相手はーだから、攻撃されて当然だ」というのは、よく聞く言葉ですよね。そう、イジメを正当化する論理です。じゃあ、差別とはイジメのことなのか?「あいつは空気を読めないから叩かれて当然だ」というのは、イジメだけど、それを「差別」と言えるかどうかは微妙です。
2011-06-15 03:25:12というのは、「空気が読めない」というのは、むしろ相手の性格や行動の特徴であって、女性とか部落民とかいう相手の属性ではないから。(もちろん、僕はここでイジメを正当化してる訳じゃないです)。それは普通、差別とは言わない。
2011-06-15 03:27:11じゃあ、差別って、どういうことなのだろうか。僕の考えはこうです。つまり「偏見」×「イジメ」=「差別」なんだと。認知カテゴリーに固着することは偏見ですが、それだけでは差別とは言えない。相手を従属させ非対称に扱うことはイジメですが、それも差別ではない。その両者の複合体が差別だと。
2011-06-15 03:29:06もっと簡単に言えば、偏見と虐めの二つがが同時に満たされることが「差別」とみなす必要十分条件だろう、という感じですね。まあ、そう「差別」を定義しておけば、割と実態に即しているだろうし、差別というものがどういうものかを考えるときには便利なんじゃないかと思うわけです。
2011-06-15 03:31:59ともあれ、差別のひどいところは、自分が相手にふるう暴力の責任を、相手の属性へと責任転嫁するところにあります。つまり、たとえば「あいつは売春婦だからレイプされて当然だ」というように。それは、相手からしたら、まったく謂われなき暴力です。
2011-06-15 03:44:56僕は、たとえその人がどのような属性であっても、あるいはなにをした人であっても、やはり一人の人間として、尊重して、配慮される権利があると考えています。これは理屈ではなく、僕の信念です。もし、それに根拠が必要なら、暴力をふるわれる人、一人一人に魂があるからだ、としか言いようがない。
2011-06-15 03:46:36もちろん、他人に魂があるかどうかなんて、確かめようがありません。そして、他者の魂とは何か、という問題を哲学的に真剣に語るのは、実は、めちゃくちゃ難しいことです。なので、ここでは省略します。ただ言えることは、そのような信念によって自分が相手にふるう暴力や差別を抑制できるということ。
2011-06-15 03:48:43差別は、差別された他人の中に憎悪を産みます。その憎悪自体は、謂われなきものではありません。ともあれ、その憎悪が、憎悪した人への攻撃を産み、場合によっては、その相手と同じカテゴリーの人への差別さえ招きます。たとえば、労働者に虐められたから、労働者を全部侮蔑するようになったりとか。
2011-06-15 03:53:14一人一人は人間として扱われる権利がある、あるいは、一人一人には魂があるという信念は、そのような憎悪の拡大再生産をできるだけ小さくするためには、有効なことだと思っています。私たちは、自分がふるう暴力と差別を小さくしていくことによって、社会の中の暴力を減らすことに貢献できるのです。
2011-06-15 03:56:28そうすることによって、たぶん、自分が被る暴力も、最小化できるかもしれない。もちろん、ぜんぜん当てにはできないことは、僕が身をもって体験しているけれども。
2011-06-15 03:59:23世の中には、一般に認知されていない差別がけっこうあるものだな、と思います。たとえば子供差別とか、売春婦差別とか、高学歴差別とか。人の潜在意識に根付いている差別はあまり表面化しないということもあるでしょうし、また、単に数が少ないものもあるでしょうが。
2011-06-15 04:08:27さて、ちょっと論点をずらしたいと思います。社会学の主流の理論の多くは、社会規範や社会の共通認識によって個人の行動が決定される、そして、その行動によって社会が生まれると考えています。
2011-06-15 04:24:45社会学の中に、社会構築主義と言われる流派というか潮流があります。それは、いろんな考えや理論があって一言では言えないのですが、たとえば現実は、社会的に構築され、あるいは個人は社会的に規定されていると発想します。そのとき、彼らが言う「社会」とは実は、言語的カテゴリーのことです。
2011-06-15 04:37:48つまり、社会構築主義の信奉者は、たとえば「男性」という社会的カテゴリーによって、その人は構築され、決定されると考えるわけです。だから、その人に僕がなにを言っても、「あんた男だから女を支配したいんでしょ」と、頭から決めつけられるわけです。これでは会話は成り立ちません。
2011-06-15 04:40:49僕は、ある人が自分の認知カテゴリーに固執し、相手を一人の人間として見ようとしないことが「偏見」であると言いました。社会学は、とりわけ社会構築主義は、そのカテゴリーは個人の認知ではなく、社会的に共有された、それゆえ動かしがたいものであると考えています。
2011-06-15 04:43:21