差別とはいかなることか、あるいは正義の暴力について。
つまり、社会構築主義は、理論的に「偏見」で他人を眺めることを、理論的に正統化しており、さらには、事実上偏見を再生産している、わけです。
2011-06-15 04:45:45あ、「社会構築主義はこのように考えている」とか、社会構築主義は偏見を再生産することに荷担している、とかいう言いかたをしましたが、もちろん、主語は、社会構築主義を信奉する社会学者です(笑)。そこまではっきり言いたくなかっただけで。。
2011-06-15 04:48:44もうちょっと慎重な言い方をした方が良いでしょう。もちろん、社会構築主義を信奉する人間が、すべて差別を行う人だ、とは言っていません。そんなに理論と実践の関係はたぶん簡単じゃないでしょう。
2011-06-15 04:55:57ただ、他人に対して、僕が先に定義した意味において偏見あるいは差別を行う人間の一部が、社会構築主義によって、自らの行為を理論的に正統化している、ということは、僕は実際にあると思います。
2011-06-15 04:57:17昨日の差別に関するツイートの重要な補足。差別は悪だと言われる。しかし、「偏見」と「虐め」の複合体であるとするならば、それはむしろ、「正義」の名の下で行われる。つまり、相手が「悪」であり、それゆえ善である私たちより劣っていて、それゆえ私たちは彼らを罰する資格があると。
2011-06-15 20:21:29おそらく人は、自分が行う差別を「正義」と呼び、他人が自分たちに対してふるう差別を「悪」だと呼ぶ、それだけにすぎないのかもしれない。
2011-06-15 20:27:34@ishtarist 「差別に関するツイート」。ゴータマさんは、差別ではなく区別だけにしろと仰っている。しかし、そのような社会を実現する為には、各自の「好き・嫌い」を取り除かなければ、実現しない。これは、誰も手放したくない。故に救われない世界が、回転して行く。
2011-06-15 20:48:36@cuulapanthaka ごーたまさんはそんなこと仰ってるんですね。僕は、好き・嫌いというのは生命の本質というか生きていくための条件なので、それを手放すということは死ぬことでしかないと思うわけです。ただ、世界を自分の味方と敵に分けてしまうことは、回避できると思います。
2011-06-16 01:19:51世の中には、差別的な理論、あるいは差別に親和的な理論というのが存在する。とりあえず、アレントの政治理論はあからさまな差別主義だし、社会構築主義は差別に親和的な理論であることは明白だ。このリストは、たぶん、もっと長くしていけるのだろうが、それは意味があることなのだろうか。
2011-06-16 03:54:44あまり褒められたことではないのかもしれないな、長期的に見れば。ただのレッテル貼りとしてしか機能しないだろうから。だから、それがいかに差別的なのか、テクストに沿って論理的に証明していくしかないのだろうけど。
2011-06-16 03:59:08「自分たち正義の敵であるとみなせば、相手にどんな攻撃をしてもよい。それは相手のせいなのだから。」僕の考えでは、これを差別と言うのです。
2011-06-16 19:59:58とりあえず、こういう形式化はどこまで妥当でしょうか。すなわち、「差別とは、その暴力性を抑制されない正義のことである。」この命題が妥当だとすれば、どのような人も、差別を行うことがあり得るということになるでしょう。私も含めて。
2011-06-16 20:47:33たとえば、僕は今、自分や自分の仲間だと思っている人が行う差別や人格攻撃に対して無神経な人たちに対して怒っています。でも、「あいつらは差別主義者だから人間のクズだ、卵ぶつけてやる」と言えば、それはすでに差別です。でも、僕の怒りがあまりに激しければ、それをしかねない。
2011-06-16 20:51:02そして、彼らの集団に属しているというだけで、誤ってまったく罪のない人を攻撃してしまいかねない。だからこそ、自分が差別を行わないために、自分を客観視して、自分の攻撃性に歯止めをかけようとする。それが公正性ということなんだと思います。
2011-06-16 20:54:02