コミュニケーションと相互理解をめぐるコミュニケーション
@inflorescencia その上で発言を補足すると,「相互に念頭に置いている外延のズレ」そして「言語では単純に表現しきれないものに対する態度」について踏まえた上で,一連の発言を書いたつもりでした.
2009-12-14 21:54:58@inflorescencia その上で「ルーマン?」というコメントに対応するリンクを見ると,以下のポストがあったので,「この議論の範囲でルーマンの主張に対応するものは,コミュニケーションモデルの話だろう」と推測して提示しました.http://bit.ly/8PLcmh
2009-12-14 21:57:43@tricken 「相互に念頭に置いている外延のズレ」は「言語では単純に表現しきれないもの」以外でも発生しうるということは、一連の発言の趣旨には含まれないのでしょうか。例えば、「ルーマン?」という言辞にはズレが生じないとお考えですか?
2009-12-14 22:01:41@tricken 仮に、例えば「ルーマン?」という言辞にもズレが生じうるという見解ならば、「一致しないというのは当然」であることを見越した上で「この議論の範囲でルーマンの主張に対応するものは,コミュニケーションモデルの話だろう」との推測を提示したことになると思います。
2009-12-14 22:06:38@tricken では、他者によるある言辞に対して、どういうことを考慮に入れて「デフォルト値」である推測を提示することにしたか聞きたいです。
2009-12-14 22:08:01@tricken 「一致しないというのは当然」という前提の下で、いかなる手法ないし過程によって「デフォルト値」を決定するか、他者のケースを参考にしたいということと、齟齬を前提としてなお「コミュニケーションなるもの」を味わいたくなってしまう動機は何か知りたいからです。
2009-12-14 22:18:29@inflorescencia 諒解です.「デフォルト値」という言葉を使った事については次のポストでひとまず補足しますが,「コミュニケーションを味わう」という立場がどういうものか自分には判断がつきません.したがってその動機の所在については私は答えかねます.
2009-12-14 22:21:24@inflorescencia 「デフォルト値」と言ったのは,「それがある言葉に対応する正しい対象」であるというような意味でそういったものではありません.同じ名辞・文の解釈が「もしかしたら互いに異なるかも」ということを念頭におきつつ,相互に確認する作業の初手を想定しています.
2009-12-14 22:23:42@tricken では、言い換えを試みます。trickenさんは「コミュニケーションなるもの」を少なくとも相互理解だと定義していないようです。それでも、理解されないかもしれないことを知りながらも@付きでポストするのはなぜか知りたいです。
2009-12-14 22:25:32@inflorescencia で,私は「ルーマン」といえば「社会学的なコミュニケーションモデルを理論的に示した」という理解がありますが,ほかの人は別の見識を読み取るかもしれない,それを踏まえた上で,相手がその想定と違うなら「その想定では無い」という反応を暗に期待していたわけです
2009-12-14 22:26:22@inflorescencia もしかしたら,そうした想定をせずに,「その〈ルーマン?〉ってどういう意味?」と尋ねて齟齬の調整したほうがよりスマートであったかもしれません,その「先取りしたルーマンの話」自体に自分が言及する必要があったのか,その事典では不明だったと言えるからです.
2009-12-14 22:28:57@inflorescencia それは「外延が近接する」というようなかたちでの「理解」はあり得る,と思っているためです.人同士が個人で思弁する範囲での,それぞれの名辞,文に対する意味範囲(=外延的定義)はしばしばズレる.しかし,相互にそのズレを語用の中で確認することは可能です.
2009-12-14 22:30:26@inflorescencia つまり,「ある主張を受けとる」ということは,少なくともシャノン=ウィーバー的な通信モデルでは成立してない(人間同士はそういう風に意味のやりとりをしていない),けれど「名辞や文が対応する意味範囲を相互に討議し,確認する」ことは長期には可能だと考えます
2009-12-14 22:31:53@inflorescencia そこに快楽があるか,といえば,「ある人はあるだろうし,場合によっては苦痛を感じる人もいる」と思います.そして「会話する」ことが「外延的定義の調整」として行われて“いない”場合のことが多い.したがって全てのコミュニケを私は「相互理解」とは呼ばない.
2009-12-14 22:33:22@inflorescencia ただし,「言語使用によって,相互に同じ名辞,同じ文で,だいたい同じ意味範囲を指す」ために調整を試みる,という狭義のコミュニケーションでは,確かに「相互理解」と呼んでもよい目的意識は見いだせるように思います.
2009-12-14 22:34:30@inflorescencia もちろん,僕が今再定義した,そうした狭義のコミュニケーション(外延的定義の相互調整のための気長な確認)を経てもなお,気軽に「相互理解」は実現しない.したがって「コミュニケーション」という言葉を「相互理解」と一致させることを放念しているのです.
2009-12-14 22:37:36@inflorescencia ただし,それは「コミュニケーション」,特に狭義のコミュニケーションとしての「相互理解」を目指した対話に意義がない,という主張にはつながりません.私は「相互理解」は努力と幸運の産物だと思い,意義を感じています.が,コミュニケーション一般の意義は保留.
2009-12-14 22:39:35なお,内包的定義の側から意見の調整をかけることももちろん人はやってきていて,それが「条件の羅列」.条件a,b,cに対応する集合のみをXと呼ぶ,とするもの.ただし,複数の人物で実際に話し合う時は,そうした事前の取り決めは難しい.だから外延的定義を確認する作業が必要になる.
2009-12-14 22:44:09