キリスト教と諸宗教と宗教文化の位置づけと
- triona_klee
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@triona_klee まぁ、それはキリスト教に限らず、神道も仏教もお互い相手を幾らか低く見る節があるのでは?それを克服して対話や研鑽の道を目指したいものです。しかも、それが上(教職)の議論で終わらないように。
2011-11-05 03:29:19もちろん!今はキリスト教のほうが相手の研究熱心なことが多いと思います QT @goto_home: @triona_klee まぁ、それはキリスト教に限らず、神道も仏教もお互い相手を幾らか低く見る節があるのでは?それを克服して対話や研鑽の道を目指したいものです。
2011-11-05 03:31:45ただ、仏教の伝統宗派や神社神道では、檀家・氏子がよその宗派のお寺で参禅したり祈祷してもらったり、はたまた教会通いしたって何も問題にならないけど、キリスト教の側では洗礼受けた信徒が参禅したり神社で祈祷受けたりすることに忌避感強い気がする。
2011-11-05 03:35:16でも神道・仏教の職にあるひとがキリスト教をどう思っているかは知らない。神主さんやお坊さんがキリスト教に関して何か口にするのを実際に聞いたことがないから。
2011-11-05 03:29:51親戚の葬儀に参加とか、友達と初詣くらいは認める教派も多いようだけど、他宗教に関わる自発的な宗教行為のタブー視という点では、やはりキリスト教側のほうが身構え姿勢が強い
2011-11-05 03:42:03@triona_klee 「真理はひとつ」→「○○教は真理」→「ゆえに他宗教は皆誤り」という考えは、どの宗教でも多かれ少なかれ有ることはあると思います。共感すること・好きであることは複数にできても、信じるということは複数にできないので…そのへんが自分でも分けきれなくて難しいです。
2011-11-05 03:44:17.@hoshinohanashi その人にとって信仰がゆらぐ感じがするのであれば、一つの信仰に専念して下手に浮気すべきではないけれど、その人の中で矛盾がないと自己解決できるのであれば、複数の宗教伝統の上に立つことは不可能ではないと思います。
2011-11-05 03:51:47親鸞に興味持つ神学者は多いけれど、仏教史上では特異な例なので、それだけ見ても仏教や日本の宗教風土の本質を理解できない。宗祖の説いた教理だけでなく、民間での受容のされ方と、民俗学的な精神世界への理解が、宗教風土の本質に迫る鍵だと思う。
2011-11-05 03:57:08@triona_klee 神道・仏教の場合、とりたてて信じていなくても氏子や檀家でいられますけど、キリスト教(その他)がはっきり信仰していないと所属できないという違いでしょうね。信仰しているなら他の宗教に自発的にまざりに行こうとはしないはずだ、という…。
2011-11-05 03:57:02.@hoshinohanashi 欧州ではキリスト教徒であることがほぼあたりまえで、幼児洗礼ののち自然に信仰からやや離れた生活になる人が多いので、日本の檀家意識に比較的近いですね。日本ではマイノリティの結束を保つため、自覚的な信仰を堅持することが求められる傾向が強いのでしょう
2011-11-05 04:06:04@triona_klee 「本当に信じているなら、それ(他の宗教にも共感すること)が間違っているかどうか自ずとわかるはずだ」と言われたことがありまして…私の中では矛盾はなくて、たとえば鏡や石に神が宿っていると考えることと、そういう考え方好きだな、と思うことは全然別のことなので。
2011-11-05 04:06:55@hoshinohanashi ええ、星の話さんがそう捉えることができるのは素敵なことだと思うし、後者の考えであれば信仰とも矛盾しないと思います。既にクリスチャンである方にそれ以上の積極性まで要求するつもりはありませんよ。
2011-11-05 04:10:24@hoshinohanashi 一方、今まで身近なところに根ざした神道や仏教のアニミスティックな信仰風土に親しんだ人にキリスト教への門戸を開くには、たとえば裏山の水神さんやご先祖の仏壇・仏教式の墓、おじいちゃんが大事に祀ってた神棚など、撤去か放置を要求するのは酷だと思うのです
2011-11-05 04:17:30@hoshinohanashi たくさんありますよ。現実にはそういった田舎や古い町に残る信仰風土の人がキリスト教に触れるきっかけは少ないでしょうけどね。布教熱心でラディカルな新教派が強引に入っていかない限り…
2011-11-05 04:27:02@triona_klee 実際きいたことがなかったので地域とか教派など知りたいです。 学部の頃、大学の人類博物館にニューギニア資料が沢山あったのですが、かつて宣教に入った際に“自発的に住民が差し出した”という祖霊像の類があるのをみて何ともいえない気分になったのを思いだしました。
2011-11-05 04:40:09仏教あるいはアニミズムと一神教
unum Deumを、その他大勢の偽りの神に対する唯一の本当の神と捉えず、どんな形態をしていても本質的にただ一つ、世界中あらゆる人・物を均しく統べるもの、と捉えれば、神木は古代日本人の目と心に映ったunus Deus、仏菩薩は古代インド人が心の中で見いだしたunus Deus
2011-11-05 04:44:04古代人が古木に精霊が宿ると考えた、それを心から信じられない現代人は、歴史として客観視すればいい。その古代人が古木そのものの視覚的神々しさの奥に無意識のうちに見いだした大いなる霊威への畏怖を、その木を通して思い起こすなら、それは一神教徒にとっても一つのイコノスタシスになりえまいか
2011-11-05 04:55:48「十字架や聖像・聖人像は、その像自体を拝む、あるいは聖人その人を拝むのではない、具象化された対象を求めたがる人間心理に即して、その造形を媒介として心を高く挙げる、ゆえに偶像崇拝に当たらない」、実に納得。その教理は、実は仏教も全く一緒なのです。
2011-11-05 05:00:54「本当に信じてるなら、それ(他の宗教にも共感すること)が間違ってるかどうかはおのずとわかるはず」と昔先輩に言われたものの、こどものころ信じていたものを間違いだったって捨てることはできなくて。(この先輩は幼児洗礼で熱心な信者さんだった)
2011-11-05 05:06:13人の及ばないはるかな存在をもとめるところはいっしょだし、八百万の神がいるっていうのは神の臨在とか聖霊のはたらきを願うのとどこか似ている。だからかたちは違うけど、本質的にもとめられている神は同じなんだろう。そういう解決をして今に至る。
2011-11-05 05:15:30仏教は全然ちがって宗教っぽい宗教として感じにくい…仏は神じゃないし、生きものはみんな死んでいつか仏に生まれ変わろうとするものなんだよね?? 沢山ある仏の形態にはそれぞれ固有の役割があるけど、キリスト教の聖人は(聖母と洗ヨハネ以外は)みんなもとめられる役割(執り成し)が同じだし…
2011-11-05 05:36:19