ちょっと恐ろしい詩のはなし:「彼ら笑う」石川逸子、をめぐるやりとり

「彼ら笑う」石川逸子(ちょっと恐ろしい詩のはなしhttp://sora6115.blog57.fc2.com/blog-entry-102.html )についてのやり取り。@spitzibara 氏の著書「アシュリー事件」を読んで@zankatei氏が思いだしたのがこの詩。 ●まとめ末尾に、「彼ら笑う」と、「アシュリー事件」の記事を引用しました。 ★追加しました。 ★立岩真也『家族性分業論前哨』の「第7章 性の「主体」/性の〈主体〉」からの引用を掲載しました。 続きを読む
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ひじじきき @hijijikiki

⑪というか、主体性βは制御できることを価値として、制御できないこと・受動的であることを負の価値に割り当てるので、そのこと自体が主体性αの否定・侵害につながる。しかし、他方で文明や技術は主体性βによって発展してきた。

2012-02-01 18:11:00
ひじじきき @hijijikiki

⑫即ち、主体性βが人の生存を助ける役割を現状の社会で担っている故に、主体性βを完全に否定することは難しい。逆に主体性αは絶対的で独立したものか?主体性αで問題となる苦痛や快とは、時代や状況を越えて不変・普遍なものか?"自然"なものなのか?というと、

2012-02-01 18:11:58
ひじじきき @hijijikiki

⑬必ずしもそうではない。主体性β同様に、主体性αも社会的に「構築」された面を持っている場合もある。生物的に基本的な快や苦、暖かいことが快、空腹は苦などは普遍性を持っていても、

2012-02-01 18:12:26
ひじじきき @hijijikiki

⑭主体性βによって強く影響されやすい、例えば性的な快や苦は、社会的・規範的な影響を強く受けるのでは。そして、最後に、詩の中の“彼ら”は、どうして子どもの主体性αを奪ったのか?自分の主体性=主体性βを示すためか、或いは

2012-02-01 18:13:12
ひじじきき @hijijikiki

⑮過去に否定された自分の主体性=主体性αへの屈折した感情が子どもへ向かうのか(虐待の連鎖と呼ばれるような)。この辺のことは社会・世間とその構成員の関係などなどが絡んでいて、一筋縄ではいかないような。

2012-02-01 18:13:56
ひじじきき @hijijikiki

⑯――とまあ長々と書いてしまいましたが、とりあえずこの辺で。リプ、コメント、突っ込みなどなどありましたら、歓迎です。

2012-02-01 18:14:19
@spitzibara

@hijijikiki ありがとうございます。個人的には⑮のあたりに思い入れがあり、ブログでもこだわっている点です。⑨~は”アシュリー療法”論争での議論に通じていくような気がします。考えてみたいと思います。

2012-02-01 18:57:13
ひじじきき @hijijikiki

返信ありがとうございます。(続く) @spitzibara ありがとうございます。個人的には⑮のあたりに思い入れがあり、ブログでもこだわっている点です。⑨~は”アシュリー療法”論争での議論に通じていくような気がします。考えてみたいと思います。

2012-02-01 22:55:06
ひじじきき @hijijikiki

続)詩「彼ら笑う」で示された論点を展開してゆくと、問題のあまりの幅の広さと絡み合いの解きほぐし難さで、グタグタになりましたが、社会-人間、人間-人間の関係、歴史的・文化的背景が加味される個別の事例、「アシュリー事件」などは更に困難かと。@spitzibara

2012-02-01 22:55:58
@spitzibara

@spitzibara @hijijikiki ちょっとズレるかもしれないのですが、昨日の保守と革新のお話から、革新であるはずの新自由主義の市場原理で科学とテクノの簡単解決バンザイ文化が蔓延していく世界が、操作コントロール志向・強権的になることで(つづく)

2012-02-01 19:01:44
@spitzibara

@spitzibara @hijijikiki むしろ世界がガチガチ保守のレッドネック的価値に回帰していくように思われ。生命倫理の議論でも何が保守で何がリベラルなのか、双方どこかでくるりと反転しているようなややこしさの中に(つづく)

2012-02-01 19:06:52
@spitzibara

@spitzibara @hijijikiki 「生命や身体が自由に操作できるようになった(と思われている)」時代の悩ましさを感じたり。

2012-02-01 19:07:11
ひじじきき @hijijikiki

何が保守で何がリベラルなのか、双方どこかでくるりと反転しているようなややこしさ>同感です。ネオリベとネオコンの区別は何なのか。レーガン、サッチャー、中曽根はどちらなのか、さっぱりわかりません。図式的な解釈は現実的ではないような。(続く)@spitzibara

2012-02-01 22:57:10
ひじじきき @hijijikiki

続1)むしろ人間の性質として保守・革新の要素が誰の中にもあって、それがどう出るかの問題かと。後藤田正晴氏はバリバリの警察官僚・保守本流の政治家だったが、自身の戦争体験から戦争は絶対反対と言っていた。@spitzibara

2012-02-01 22:57:43
ひじじきき @hijijikiki

続2)保守的な思考があっても、彼自身の経験が、否定すべきものを否定する方向にストレートに出たからでしょう。逆に一見リベラルに見えても、よって立つ基盤・経験が脆弱な場合に、信じられないような変節をする人もいる(二世議員とかに多そう)。@spitzibara

2012-02-01 22:58:15
ひじじきき @hijijikiki

続3)更に問題なのは、自分に向けられた否定を、向けた方向に正しく否定し返せないで屈折する場合です。「親の子育てが悪いから」に対して、「そう言う方がおかしい」と返せずに自分や子どもを責めてしまう場合など。@spitzibara

2012-02-01 22:58:49
ひじじきき @hijijikiki

続4)自傷他害と言われることの原因の多くはこの辺にあるのでは。そして小泉郵政選挙で貧困層の若者が小泉を支持した。これも自分に向けられた否定を正しい方向に返せないように教育(自己決定→自己責任)され、それを内面化してしまったからでは。@spitzibara

2012-02-01 22:59:38
ひじじきき @hijijikiki

続5)またまたまとまりませんが、今日はこの辺で。@spitzibara

2012-02-01 22:59:57
satoopen @satoopen

@hijijikiki 自由とは何か、ということとコントロール(制御)との関係を考えていったら面白そうだなと感じました。ゆっくり考えてみます。余裕があれば立岩本も読んでみようと思います。

2012-02-01 20:41:03
ひじじきき @hijijikiki

返信ありがとうございます。(続く) @satoopen 自由とは何か、ということとコントロール(制御)との関係を考えていったら面白そうだなと感じました。ゆっくり考えてみます。余裕があれば立岩本も読んでみようと思います。

2012-02-01 23:05:00
ひじじきき @hijijikiki

続)立岩本でも『家族性分業論前哨』は読みやすく、お奨めです。自由と他者を制御することの関係は人間性の根幹の問題のような。一昨年から120年前の本、ガブリエル・タルド「模倣の法則」などを読んで、考えてますけど、先は長そう。。。@satoopen

2012-02-01 23:05:49

「空を見上げながら・・・晴れの日も雨の日も」から引用:

ちょっと恐ろしい詩のはなし「彼ら笑う」石川逸子

http://sora6115.blog57.fc2.com/blog-entry-102.html

彼ら笑う   

           石川逸子

「この子は手足が長すぎる」
子を食う母
朝に晩にばりばりと子の手足を食う母
血みどろの口と
慈愛の瞳
「私はお前のためを思っている
いつもお前のためを思っている」

子は逃げる
短くなった手と足で子は逃げる
母の沼 どぶどろの臭い放つ 沼から逃げようと
もがく
「誰か来て 息子が逃げる
どうかあの子をつかまえて」
髪振り乱し わめく母
したたる涙
子は取り巻かれる
おとなしい隣人たちが子を囲み
次第にその輪をちぢめてゆく

「食べられたのは僕です
流れたのはぼくの血だけなのです」
「悪いのはお前だ」「お前だ」
ぼくはぼくの手足を守らねばならない」
「それでも悪いのはお前だ」「お前だ」

子はひとりぼっち 見方はいない
大勢の手が彼をつかみ
またつなぐ 彼を その母の足元近く

「ぼくはあなたを憎む」
「わたしはお前を思っている」
「ああいっそぼくはあなたを殺したい」
「わたしはお前を思っている」
うっとりと母はささやく
微笑みながら近付き
ばりばりと子の手足をじゃぶる

子は変わっていく
朝に晩に手足を食われて子は変わってゆく
もう子は逃げようとしない
彼は静かに朝焼けをみつめ じっと一日の終わりを待つ
「わたしの息子 お前はやっといい子になった」
「彼は死んだんです 母さん」
「まあ お前ったらふざけて」
上機嫌に笑う母
俯向く子

「ごらん 実にいい風景だ」
「ええ 心あたたまる……」
遠く語りあう隣人
誰も彼も笑っていた
死んだ 或いは死にかかった 子の魂はそっちのけに
笑っていた 実にたのしげに笑っていた

「家庭の詩」(「詩のおくりもの 3」、筑摩書房刊)より

....(以下省略)....

 

生活書院のHPから引用:
http://www.seikatsushoin.com/bk/081 ashley.html
――――――――――――――――――――――――――――
★背が伸びる事を禁じられた子ども

http://twitpic.com/8dxnb7

児玉真美【著】

アシュリー事件

メディカル・コントロールと新・優生思想の時代

四六判並製  272頁  定価2415円(税込)  ISBN978-4-903690-81-0

2004年、アメリカの6歳になる重症重複障害の女の子に、両親の希望である医療介入が行われた──1、ホルモン大量投与で最終身長を制限する、2、子宮摘出で生理と生理痛を取り除く、3、初期乳房芽の摘出で乳房の生育を制限する──。

「重症障害のある人は、その他の人と同じ尊厳には値しない」……新たな優生思想がじわじわと拡がるこの時代を象徴するものとしての「アシュリー・Xのケース」。これは私たちには関係のない海の向こうの事件では決してない。そして何より、アシュリー事件は、まだ終わっていない──。
 
【目次】

はじめに

第1部 アシュリー・Xのケース

  1 アシュリー事件とは
          “アシュリー療法”論争
          今なお続く論争
          P・シンガー「犬や猫にだって尊厳認めない」
  2 アシュリーに何が行われたのか
          事実関係の確認
          子宮・乳房芽と盲腸の摘出
          エストロゲン大量投与による身長抑制
          「成長抑制」と“アシュリー療法”
  3 “アシュリー療法”の理由と目的
          主治医論文は「在宅介護のため」
          親のブログは「本人のQOLのため」
          身長抑制の理由と目的
          子宮と乳房芽摘出の理由と目的
          基本は「用がない」それから「グロテスク」
  4 アシュリーとはどのような子どもなのか
          論文が描くアシュリー
          親のブログが描くアシュリー
          「重症障害児」というステレオタイプ
          ディグマのステレオタイプ
          ステレオタイプの背後にあるもの
  5 経緯と、それが意味するもの
          2004年初頭から夏
          異例の厚遇
          隠ぺいと偽装
          隠ぺいと偽装が意味するもの

第2部 アシュリー事件 議論と展開

  6 議論
          効果はあるのか?
          「科学とテクノで簡単解決」文化
          優生思想の歴史とセーフガード
          医療化よりもサービスと支援
  7 WPAS調査報告書
          医療決定における障害者の権利
          病院との合意事項
          WPASの不可解
          未解明の費用 
  8 K.E.J.事件とケイティ・ソープ事件
          1)K.E.J.事件
          2)ケイティ・ソープ事件【英国】
  9 法と倫理の検討
          ある倫理学者の論文
          豪・法律事務所の見解
          アリシア・クウェレットの論文
          エイミー・タンらの論文
          「どうせ」が共有されていく「すべり坂」

第3部 アシュリー事件が意味するもの

  10 その後の展開
          ディクマがカルヴィン大学で講演
          父親のブログ1周年アップデイト・CNNインタビュー
          ピーター・シンガーが再びアシュリー・ケースに言及
          子ども病院の成長抑制シンポジウムとワーキング・グループ
          ディクマとフォストらが成長抑制に関する論文
          ディクマとフォストが論文でアシュリー・ケースへの批判に反論
          親のブログ3周年アップデイト──既に12人に実施
          インターネットで続く“怪現象”
          ディクマ著、小児科学会の栄養と水分停止ガイドライン
          アンジェラ事件(オーストラリア)
          メリーランド大学法学部で障害者に関する医療と倫理を巡るカンファレンス
          成長抑制ワーキング・グループの「妥協点」論文、HCR
          別の存在だと「考えるべきではない」という防波堤
  11 アシュリー事件の周辺 
          ゴンザレス事件とテキサスの“無益な治療”法
          ノーマン・フォストの“無益な治療”論
          シャイボ事件(米 2005)
          ゴラブチャック事件(カナダ 2009)
          リヴェラ事件(米 2008)
          ナヴァロ事件
          ケイリー事件
          フォスト、シンガーらの「死亡者提供ルール」撤廃提案
          臓器提供安楽死の提案 
          「死の自己決定権」議論
  12 アシュリー事件を考える
          記事から“消えた”2行
          親が一番の敵
          親たちの声なきSOS
          ダブル・バインド
          対立の構図を越えるために
          メディカル・コントロールと新・優生思想の世界へ

あとがき