恐怖、心痛、大きな怒りすべてに愛という根があった:「チェルノブイリの雲の下で」と、詩「彼ら笑う」、「アシュリー事件」
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@hijijikiki @gmax_jp続2)生存や存在の肯定、健康で文化的な生活=生存権を直感的に求め実現しようとすることでは。これはhttp://t.co/MYmBsHa2で述べた主体性α=侵入・侵害によって受ける苦痛を防ぐ、妨げられずに快を得るための権利に通じるのではと。
2012-05-13 00:05:57ちょっとこれは凄いです。示唆深いけれど、本当に怖い話でもあり @hijijikiki さんの「ちょっと恐ろしい詩のはなし:「彼ら笑う」石川逸子、をめぐるやりとり」をお気に入りにしました。 http://t.co/IG0MaDk9
2012-05-13 00:20:58@hijijikiki ありがとうございます。まとめられていた「彼ら笑う」と「アシュリー事件」のお話。背筋にゾッとしたものが走るとともに、何か凄いものをいま直感したように思います。
2012-05-13 00:22:40いわゆる母性の二面性〜「育てる」ことと「飲み込む」ことについては、ユングの原型論でもグレートマザー原型としてしばしば出てくるのだけれど、アフリカの民話の話が恐ろしくこの両面を語っていた。
2012-05-13 00:25:37その民話では世界が巨大な肉の塊のような渦によって飲み込まれようとしていた。多くの人びとや村や森や動物が飲み込まれていく中、必死で逃げる少年がひとり居た。かれは渦から逃げる途中で大きなヒョウタンを見つけ、その中に隠れて難を逃れるというものだったのだけど。
2012-05-13 00:26:59ここの肉の渦が「飲み込む母」を象徴するとともに、子どもを匿い逃れさせるヒョウタンは「育て護る母」を象徴している。「母性」を女性のものという考えに縛りつけられるのを僕は好まないことをお断りしつつ。親と子の関係性としてこの話を今もしばしば思い出す。
2012-05-13 00:29:52こどもの手足を食べてしまう母親、という詩のなんとも言えぬ不快感はどこから来るのか、親と子の間の一種のアンビバレントな感情をグロテスクに誇張した表現がそう思わせるのだけど、確かにこれは親の心にも突き刺さる。かつて子どもであった、そして今大人であり親である自分の心にも突き刺さる。
2012-05-13 00:31:42先のアフリカ民話は、親と子、生かす存在と殺す存在、といった関係が混沌となった中で繰り広げられたドラマだと思う。この葛藤の中で苦しんだり悩んだりし続けながら、親も子も、成長する中で新しく世界を創造するのだろうと思う。怖い話だが親の危うく暗い闇の部分を親は忘れてはいけないと思う。
2012-05-13 00:35:10あともうひとつ、「科学とテクノロジー」で人間のアイデンテティに関わる根本的な課題をあたかも鮮やかに簡単に解決したかのごとく見せる、一種の魔術的な行為がずっと行われてきたことが、僕にはとても気にはなっていた。
2012-05-13 00:39:03アシュリー事件のことは、ちょっと今深く掘り下げて考えられるほど僕には持ちネタがないのだけど、個々それぞれにユニークであるはずの身体に対するあからさまな親から子への侵害に科学技術が使われたことは、戦慄して記憶すべきだと思う。
2012-05-13 00:41:01もちろん、科学と心理学分野の様々なテクノロジーによって、今は身体に対する侵害と同様な侵害の構図が精神に対してもどこかで行われていると見るべきで、その予感を持った視点を3.11以降の僕らの世界に向けて、目の前で起こっていることを再吟味して見ることは必要ではないのか、と。僕は思った。
2012-05-13 00:45:44チェルノブイリ時の各国の対応と市民の反応について、僕らが否定的文脈で捉えた出来事の数々を「学ぶべき前例」とした立場はおそらく二つある。一つは「あってはならない」とする立場、もうひとつは「あっていい」とする立場。前者は「チェルノブイリの雲の下で」のような立場であり、後者は…。
2012-05-13 00:48:52「ああいうことがあっていい」とする立場の人たちは、自らを智慧を持ち権威のある親であるかのように見せ、そして「無知で弱いもの」を「親心」から教育しようとするだろう。さながら先の詩の中での親が手足を食べるようであるかもしれない。
2012-05-13 00:54:11@gmax_jp 感想ありがとうございます。よろしければ「アシュリー事件」著者の@spitzibaraさんと哲学者の江口さんのやり取りのまとめもhttp://t.co/i6FVQeAr。分野は違っても、専門家と”当事者”の関係は「チェルノブイリの雲の下で」と似た構造が。
2012-05-13 01:17:28「アカデミックな言論の世界で「果たされていない責任」の方がよほどタチが悪い」このセリフ、聞かせてやりたい人がたくさんいる。→「言論の世界の一員」から、ぐるぐる - Ashley事件から生命倫理を考える - Yahoo!ブログ http://t.co/f18T4jqY
2012-05-13 01:39:48「「母よ、殺すな」と言ったのは、脳性マヒの人びとだったけど、殺したくなかったら、世間と闘うしかないだろう。」→ mad mother blues: 読了、児玉真美『アシュリー事件ーーメディカル・コントロールと新・優生思想の時代』 http://t.co/CN6NK5TP
2012-05-13 01:47:36@gmax_jp「あのあと少し思うままに呟いていました」>興味深く拝読しました。まず、前のツイートの補足です。前のツイートで「広い意味での”愛”は、生存や存在の肯定、健康で文化的な生活=生存権を直感的に求め実現しようとすること」と書きました。(続く)
2012-05-13 19:18:57@hijijikiki @gmax_jp 続1)これには「目前の恐怖に騙されないためには、より根深い恐怖感に耐え、それと共存する」と同様に、目前の、世間で主流になっている価値観=近代科学技術的な価値観に騙されないことに通じる直感が前提にある、と考えてます。
2012-05-13 19:19:36@hijijikiki @gmax_jp 続2)前述のhttp://t.co/MYmBsHa2で主体性β、即ち「制御できることを価値として、制御できないこと・受動的であることを負の価値に割り当てる」という価値観を取り上げましたが、これが元になってできた
2012-05-13 19:20:13@hijijikiki @gmax_jp 続3)近代的価値観に“騙されない”こと。即ち本来は道具や手段であるはずの主体性βが、より重要な主体性α「侵入・侵害によって受ける苦痛を防ぐ、妨げられずに快を得るための権利」を侵害するという文明社会の本末転倒に騙されないこと。
2012-05-13 19:21:04@hijijikiki @gmax_jp 続4)このことを直感し、主体性αを尊重し実現することが広義の“愛”であると、「チェルノブイリの雲の下で」のご紹介と、「ちょっと恐ろしい詩のはなし:「彼ら笑う」石川逸子‥」から、ひとまず、わたし的には考えました。(以下宛先なしでツイート)
2012-05-13 19:21:34@hijijikiki 追加)「いわゆる母性の二面性」>たぶん言葉を使わないため動物にはない、人間に特有のものかと。主体性βとは言葉を持ち、文明を持った人間のみが持つもので、主体性βが(言葉の使用で)発生したため、その後に主体性αが“発見”!されたのだろう。(続く)
2012-05-13 19:22:13@hijijikiki 追加2)即ち、言語の使用による主体性β「制御できることを価値として、制御できないこと・受動的であることを負の価値に割り当てる」の発生で、母子関係を含む人間関係が(動物同士の関係とは)別のものになってしまった。
2012-05-13 19:23:16@hijijikiki 追加3)そのこと、主体性βの発生が「母性の二面性」と言われるような現象をもたらした。これは「母性」に対して主体性αのみを見ようとするジェンダーバイアスによるものでは?
2012-05-13 19:23:49