昭和初期の『格差』について

収入による格差、地方による格差等を不時ッコ‏@bukrd405さんの連ツイから
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@bukrd405

昭和5年、東京の大企業に勤めるエリートサラリーマンは、新婚旅行まで含めると800円を超える豪華な結婚式を挙げていたが、同じ年の東北農村の親は、その五分の一にも足りぬ130円の金を得るために、娘を身売りに出していた。その数は、一つの村だけで数十名を超え、東北全体で数万に達した。

2012-05-22 11:57:50
@bukrd405

東北では娘売りとは別に、6~7歳の子を売る風習もあった。東京でも東端の職人街では、わずか3銭(100銭が1円)で買い与えた「うずら豆50粒」を兄弟3人で奪い合って母親は上の子を殴りつける家もあった。

2012-05-22 12:01:04
@bukrd405

《昭和初期の月収一覧》 職業軍人(中尉):85円 工場労働者:50円 巡査:30~60円 小規模商人:30~50円 住込工員(食住つき):12円 住込奉公人(食住つき):3~10円 職人:20~50円 日雇労働者:20~30円 通勤商店員(女性):25円 

2012-05-22 12:07:12
@bukrd405

タクシー運転手:50~60円 内職:10~20円 農村の女工:10円(一食つき)

2012-05-22 12:08:12
@bukrd405

《昭和5年の公務員の月給》 内閣総理大臣:1000円 各省大臣:670円 官立大学長・府県知事:500円 判事・教授(1級~2級):100~375円 事務官(1級~11級):92~317円 大学助教授(1級~12級):92~260円 判任官:42~200円 

2012-05-22 12:18:10
@bukrd405

国会議員(一般):250円 中佐(職業軍人):268円

2012-05-22 12:18:49
@bukrd405

昭和初期、普通のサラリーマンには年々の昇給とボーナスがあったので、昭和10年で40歳位になると中卒者でも月収70円程度になり一応安定した生活ができた。さらに恵まれた場合には月100円に近く、高学歴大企業のエリートでは150円以上になっていた。

2012-05-22 12:22:24
@bukrd405

昭和ひとけたでは「月収100円以上」というのが豊かさの尺度であり、憧れの目標でもあった。このように、都市の中でも小商人・職人と上級サラリーマンの間には3倍から5倍以上もの所得格差があり、農村には借金のみで飢餓線上にある人々が約400万家族もいた。

2012-05-22 12:24:01
@bukrd405

財閥系企業の管理職は年収1万円以上が珍しくなく、池田成彬は三井銀行からの給与だけで年40万円、同じ三井の団琢磨は所得税だけで年12万以上払っていたといわれる。

2012-05-22 12:27:40
@bukrd405

こうなると、月収50~100円の一般サラリーマンとは10倍以上の差があり、住込奉公人などから見ると100倍以上の差異があるという、恐ろしいほどの格差社会であった。

2012-05-22 12:28:39
@bukrd405

ただ、低収入だから苦しむ、という人ばかりではなかった。今とは違う生活感覚の人達がいたのである。昭和前期の時代には、まじめ調のラジオは始まっていたが、テレビははまだなく、大人の多くは新聞や週刊誌も読まなかったので情報量が乏しかった。

2012-05-22 12:31:37
@bukrd405

そのこともあって、都会の職人層や農漁村のかなりの人は、伝統的な技術と方法に誇りを持ち、食べることに事欠かかない収入がある限り、欲張らず、「知足安分」つまり足るを知って分に安んじる人々であった。

2012-05-22 12:33:36
いまはし @ghjk6654

相当勉強できても進学させてもらえないんですよね。経済面もあるけど倫理面で。Rt"@bukrd405: 都会の職人層や農漁村のかなりの人は、伝統的な技術と方法に誇りを持ち、食べることに事欠かかない収入がある限り、欲張らず、「知足安分」つまり足るを知って分に安んじる人々であった。"

2012-05-22 13:01:49
@bukrd405

@secretaria1988 作家の中野孝次は小学校卒業後、上の学校へ行きたいと頼んでも、「職人の子に学問はいらない」との一言で夢を潰されたそうです。(その後彼は独学で専門学校入学資格検定試験に合格し、東京大学独分科を卒業し、大学教授兼作家になった)

2012-05-22 14:32:21
@bukrd405

たとえば、立派な漁師は立派な漁師としてのプライドを持って、収入高などを問題とせず堂々と生きていた。そのような姿勢を持つ人は農民や職人はもちろん、下町の庶民の中にもいたことを忘れてはならない。

2012-05-22 12:35:30
@bukrd405

それらの人々は、外部の者にはひどく貧困に見えるが本人には「貧しさ」の意識はなく、地域の中で生まれ育って生涯を送ることに何等の疑問も持たない、ある意味で幸せな人々なのであった。

2012-05-22 12:36:20
月餅 @geppeeee

@bukrd405 まるで「下流社会」で描かれている現在の千葉県民のようですね。(あの本はいろいろと疑問に感じるところもあるのですが)

2012-05-22 12:38:55
@bukrd405

@geppeeee 現代だと昭和前期に比べて情報量が圧倒的に違うので、さすがにここまで気楽な人たちはほとんどいないと思うんですけどね。

2012-05-22 12:40:42
月餅 @geppeeee

@bukrd405 現役千葉県民の私もそう思います(苦笑)。

2012-05-22 12:41:14
@bukrd405

華族や大資本家を別にすれば、当時において恵まれた生活ができた家庭は、上級学校、とくに大学や専門学校を通って上級官吏になった者、陸軍士官学校や海軍兵学校を通って佐官以上の職業軍人になった者、一流大学を出て大会社・大銀行の管理職になった者、

2012-05-22 12:44:03
@bukrd405

(承前)医師や技術者や大学教授として高い技術をもった者などを中心とする家族であった。最上級の支配階層にはなりえないまでも、新中間層の中でも頭一つ抜け出した才能があって高い暮らしが可能となった人々である。

2012-05-22 12:46:09
@bukrd405

この中心となった男は世間からご主人とかお大尽とかと呼ばれ、高等女学校を出て花嫁修業に専念してきた女性と見合い結婚をした。妻は女中や下男を置くことがあっても就職することはまったく念頭にはなく、家事と普通4~5人生まれる子の育児に専念した。

2012-05-22 12:48:08
@bukrd405

サラリーマン――とりわけ東京の新中間層の夢は、山の手線内側の窮屈なアパートや借家を去って、中央線や西・南・北側に伸びた私鉄沿線に沿って郊外へ拡がり、その家族はいわゆる文化住宅に住んで、戸主たる夫は都心の一流会社に通勤することであった。

2012-05-22 12:53:36
@bukrd405

高級サラリーマンの家庭の一例。住宅は自宅かもしくは借家の一戸建て、若夫婦と幼児1~2名の核家族、妻は専業主婦で内職もしない、買い物は御用聞き(注文販商人)か近くのマーケット(公設市場)、毎日午後早く風呂屋へ行く、家事はラジオを聞きながらの食事の支度、掃除、洗濯、編み物くらい。

2012-05-22 12:55:57
@bukrd405

この生活を支える根幹は、安定した月収が昭和6年で100円以上(ボーナスを含めれば120円近く)あることで、大会社員、上級公務員、高級軍人などの地位を確保できた一部のサラリーマンだけであった。

2012-05-22 12:58:40
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