続・シェリング話

ライプニッツの話が半分以上かも。錯綜していてまとめが正確なのかよくわからない…。 こっちのまとめでのシェリング話が続くかたちで。 「ドゥルーズとシェリング、ヴァール、シモンドンについて」 http://togetter.com/li/31150
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Kim, Yi-Chul 🖖 @kimarx

@waschmaschine No. But I will add it to the preface of this essay; '花田清輝に捧げる'

2010-06-23 19:39:35
@waschmaschine

@kimarx うわ、それはカッコよすぎでしょw。ま、いずれにせよ、楽しみにしてまーす。

2010-06-23 19:42:23
@assazi

またシェリングの『エチカ』の読み方(SW I ,6,24)の理解のために、ベルクソン「哲学的直観」『思想と動くもの』の有名な一節もコピーして配布しよう(白水社版全集142-3頁)。全く同じことを述べている。

2010-06-24 08:44:42
@assazi

「等質的だと考えられる持続の中では、…すべての自由は了解できないものとなるだろう。『純粋理性批判』が到達したのはまさにこのような結果であった。しかしこのことから真の持続は異質的なものであると結論するかわりに…カントはむしろ自由を時間の外に位置させて、…

2010-06-24 15:48:10
@assazi

現象の世界と…物自体の世界とのあいだに、越え難い垣を築くことを好んだのである。//しかしおそらくこのような区別はあまりにも割り切りすぎているし、この垣も人が考えるよりも越えやすいものなのだ。」『時間と自由』(白水社版全集、214頁)

2010-06-24 15:51:00
@assazi

「この書物の第一章の目的は、観念論も実在論もどちらも行きすぎた主張であること、物質を、私たちがそれについてもつ表象に還元することも誤りだし、また私たちの内に表象をつくり出しはするが表象とは本性の異なるようなものとするのもやはり誤りであることを示すことにある。

2010-06-24 15:56:30
@assazi

物質とは、私たちにとって、「イマージュ」の総体なのである。そして「イマージュ」というものを、私たちは観念論者が表象とよぶものよりはまさっているが、実在論者が事物と呼ぶものよりは劣っている存在-「事物」と「表象」の中間にある存在-と解する。」『物質と記憶』(同、5頁)

2010-06-24 15:59:35
@assazi

「私たちは知覚を事物の中に戻す。そして両者によって意義なく受け入れられ、両者の共通の限界をなしていた要請をとりのぞくにつれて、実在論も観念論もお互いほとんど一致してしまうことをみとめる。」『物質と記憶』(同、258頁)

2010-06-24 16:09:59
@assazi

「認識の素材とその形式とのあいだのカント的な区別については、事情は異なる。カントは知性のうちに、何よりも、関係をうちたてる能力を見ることによって、うちたてられる関係の諸項に、一つの知性外の起源を与えた。//それによってカントは新しい哲学の道をきりひらいた。

2010-06-24 16:17:04
@assazi

この哲学は、いっそうすぐれた直観的努力をもってすれば、認識の知性外の素材の中に、うちたてられたことであろう。意識がかかる素材と一致するならば、…意識は、…身体および精神という実在の二つの形式を、もはや外から知覚するのではなく、内からとらえることができるのではないだろうか?

2010-06-24 16:20:16
@assazi

//カントはこの方向に進もうとしなかった。…彼は知性をかかる素材のうちから切り出すことなど夢想だにすることができなかった。したがって…悟性のもろもろの枠も、悟性そのものも、できあがったものとして、そのまま受けとられなければならなかった。われわれの知性に提供される素材と

2010-06-24 16:24:11
@assazi

この知性そのものとのあいだには、何らの親近性もなかった。両者のあいだの一致は、知性がその形式を素材におしつけるところから生じるのであった。したがって、認識の知性的形式を一種の絶対者として立て、その発生をきわめることを断念しなければならなかったばかりでなく、この認識の素材そのものも

2010-06-24 16:26:52
@assazi

知性によってあまりにすりつぶされているので、もとの純粋さにおいて素材をとらえることも望めないように思われた。」『創造的進化』(同、402-404頁)

2010-06-24 16:28:55
@assazi

「もしわれわれがこの種の直観、いうならば超知性的直観をもっているならば、赤外線が紫外線と連続的であるように、感性的直観はおそらくいくつかの中間段階を経てこの種の直観につらなっているだろう。…感性的直観は、もはやたんに、とらえられない物自体の幻影をとらえるだけではないであろう。…

2010-06-24 16:34:47
@assazi

感性的直観はわれわれを絶対者にまでも導いてくれるであろう。」『創造的進化』(同、405頁)---以上、ベルクソンからの引用でした。

2010-06-24 16:36:03
@assazi

deus est res extensaという命題が、シェリングにとって重要なのはおそらく物質を捉える際の指針の役を果たしているからである。われわれが身体をもつのは自明であるが、しかし神の場合はそうではない。心身問題の解決のために神に延長という属性を帰するのはどうなのだろうか?

2010-06-24 17:13:25
@assazi

物質といってもそれをどう捉えるかは一つの哲学的問題である。思惟が神の属性であるのは問題ない。延長がその起源を神自身の内にもつものとして語られていることが重要なのである。これによって物質の概念そのものが変質してくる可能性が生まれる。

2010-06-24 17:17:35
@assazi

シェリングが先の命題のうちに見ているのは、物質概念の変質の可能性だと思う。

2010-06-24 17:20:28
@assazi

あとは「唯物論」かな…

2010-06-24 17:31:11
@assazi

【補足】『純粋理性批判』という地図上にシェリングの出発点を記そうとするならば、それは明らかに「超越論的感性論」である。フィヒテが「統覚」の方面へカントを超越しようとしたとするならば、シェリングは「感性論」の更に手前に超越する。

2010-06-24 19:07:38
@assazi

そこに見出されたもの--それをシェリングは絶対的自我=産出的自然となづける。シェリングの哲学は「超越論的感性論」から「自然」への降下をもって始まる。

2010-06-24 19:09:55
@assazi

唯物論は明日にします。ドゥルーズって唯物論なの?

2010-06-24 19:11:36
@waschmaschine

ライプニッツの「微小知覚」が示すように、知覚に無限の質が叩き込まれていることは間違いがない。その意味では物自体と現象という二分法は誤っているのかもしれない。ただそのとき、「外」が、「他者」が失われるのが恐ろしい。ベルクソンやシェリングに対する僕の違和感はそこに存するのかも。

2010-06-25 10:38:47
@waschmaschine

ドゥルーズには思考に対する「暴力」というかたちでギリギリ「外」が保証されているように思う。ガタリとの共著になるとその契機は失われているようにも見えるが...。以上、昨日の某所でのやりとりを見て思ったこと。

2010-06-25 10:41:29
@waschmaschine

@assazi 申し訳ありません、不勉強でおっしゃっている意味がよくわかりません。その系譜とは具体的には誰のことでしょうか? 特に量的なものの方が思いつかないのですが..。質的なものはおそらくマイモンに始まる系譜でしょうか。

2010-06-25 14:56:34
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