江戸時代からの元号について

江戸時代からの元号についてまとめました。
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@miohiroko

0458[元号]享保。賛辞ばかり送っては正確ではないとの誹りを受けるので、厳しい事も紹介しておくと、打ち続く凶作、飢饉により、江戸の繁栄とは裏腹に地方は疲弊し、困窮した。そのため、一揆や打ちこわしが頻発するなど、せっかくの善政も日本すべてに行き渡ることはなかった。また、大商人→

2012-10-18 18:21:33
@miohiroko

→による価格の釣り上げといった悪質な行為が常態化し、大岡越前に命じて政治主導により打ち砕こうとさせたが、ついにこれは果せないまま吉宗の治世は終わってしまった。もはや幕府の強権をもってしても大商人(財界)を封じることができなくなった。

2012-10-18 18:25:13
@miohiroko

0459[元号]元文。げんぶん。桜町天皇即位により改元。勘申者は菅原在秀。出典は文選(もんぜん)。武によって世を開き、文によって天命を伝える、天に従い、時に随って政事をすれば大いに栄える、という意味。享保の所ですべて説明してしまったが、この元号の期間も吉宗の治世。

2012-10-18 18:35:37
@miohiroko

0460[元号]元文。吉宗で忘れてならないのは、庶民に対する学問の奨励。高度なものではないが、どのような職業にしろ、読み書きができたほうが役に立つ。さらに、お上の触れ(通達)は文書。それをいちいち庄屋などが読み聞かせるよりも各自が読めたほうがあまねく伝わる。幕府の政策を浸透させ→

2012-10-18 18:41:47
@miohiroko

→ることで支配の強化を狙ったものだが、このおかげで識字率が飛躍的に上がり、庶民向けの書物や摺り物の大量生産、情報の広がりなど、時代は近代へと加速し始めた。

2012-10-18 18:44:07
@miohiroko

0461[元号]寛保。かんぽう(かんぽ)。辛酉革命により改元。勘申者は菅原長香。出典は国語(という歴史書がある)。意味は、為政者は寛容であれば人々に慕われ、その地位も安泰である、ということ。この元号の時に、やっと幕府の根本法、公事方御定書(くじがたおさだめがき)が完成した。

2012-10-18 20:10:13
@miohiroko

0462[元号]延享。えんきょう。甲子革命により改元。勘申者は菅原長香。出典は芸文類聚(げいもんるいじゅう=項目ごとにいろんな書物の関係箇所を抜粋したもの。類書という)。立派な君主が長寿ですべてが吉であるように、という意味。天皇が桃園、将軍が9代家重に替わった。

2012-10-18 20:22:30
@miohiroko

0463[元号]寛延。かんえん。桃園天皇即位により改元。勘申者は菅原為範。出典は文選。寛容な心で天下の優れた者たちを引き寄せる、結集する、という意味。為政者の態度としてはなかなか立派な覚悟である。ちなみに、江戸時代は寛の字が好んで元号に使われた。寛永、寛文、寛保、寛延、寛政。

2012-10-18 20:33:07
@miohiroko

0464[元号]寛延。寛はひろいという意味の字で、心が広い、度量が大きいなど、おもに心のあり方に使われる。寛大、寛容、寛恕、寛仁、寛裕、寛厚などなど。これが元号に好んで使われたのも、現実はともかく、為政者としての覚悟を示し誓ったものとして大いに評価できる。

2012-10-18 20:39:55
@miohiroko

0465[元号]寛延。人の上に立つ者は、なによりも寛容でなければならない、という教えは古くから為政者の矜持として教えられたし、また教えられなくても名君なら自覚していた。もちろん、自分には厳しくなければならないが。市民国民にも責任を持ってもらう、ということを言う首長や議員が増えて→

2012-10-18 20:48:24
@miohiroko

→きたが、国民、市民に寛容な者からはおよそ考えられない無責任な物言いだ。しかし、こういう考えももはや通用しない世の中となってしまったのだろうか。

2012-10-18 20:50:29
@miohiroko

0466[元号]宝暦。ほうれき。天変地異のため改元。勘申者は菅原為範ほか2名。出典は貞観政要(じょうがんせいよう)。意味は字の通り、尊い暦。天変地異という理由だが、改元直前には特に大災害はない。吉宗が逝去したためと思われるが元号は将軍とは関係づけないためにそのようにしたのだろう。

2012-10-19 18:16:11
@miohiroko

0467[元号]宝暦。天変地異という理由で改元したはずの元号だが、宝暦にしたとたん本物が襲った。関東の大洪水に江戸大火。幕府のお膝元ばかり狙い撃ち。さすがに本物の災害ですぐ改元するのはためらわれたか、天皇の代替わりで宝暦の元号が放棄されることになった。

2012-10-19 18:25:44
@miohiroko

0468[元号]明和。めいわ。後桜町天皇即位により改元。勘申者は菅原在家。出典は書経。これがなんと、のちの昭和と同じ箇所「百姓昭明、協和万邦」(ひゃくせいしょうめいし、ばんぽうをきょうわす)から採られた。しかも和の字は同一箇所となり、昭和に関しては異論が出なかったのか不思議だ。

2012-10-19 18:32:53
@miohiroko

0469[元号]明和。現時点における最後の女帝、後桜町帝(本名智子)。理由や背景はどうあれ、江戸時代は女帝の存在も可能であった。江戸時代をすべて暗黒と蔑視する人は男系しか認めないために女帝も否定するが、かつての日本をすべて否定し近隣諸国を罵倒してどこへ向かおうというのだろうか。

2012-10-19 18:39:11
@miohiroko

0470[元号]明和。将軍が家治となり、田沼意次を側用人(そばようにん)として重用した。田沼は吉宗の緊縮政策を大転換し、重商主義を採った。印旛沼などの干拓事業や用水開発など、大きな仕事をしたものの、政策と自己の利欲が結びつくものが多く、反感を買うようになった。

2012-10-19 18:50:27
@miohiroko

0471[元号]安永。あんえい。東海、関東、奥羽地方の大風水害のため改元。勘申者は菅原為弘。出典は旧唐書。国家を平和に保ち、先祖を永く大切にする、という意。文選の長寿でいつまでも安らかに、という文句からも採った。

2012-10-19 19:15:42
@miohiroko

0472[元号]安永。前の明和九年は「めいわく(迷惑)年」と言われたほど各地で災害が発生した。そのためにこの元号に変えられた。天皇は後桃園、さらに光格と変わった。杉田玄白らによる解体新書が刊行され、江戸の世は着実に近代へと動きつつある。

2012-10-19 19:19:40
@miohiroko

0473[元号]天明。てんめい。光格天皇即位により改元。勘申者は菅原為俊。出典は春秋左氏伝。天の明に従い、地の利に基づきながら天下を導く、という意味。7年、将軍が家治から11代家斉に変わっている。

2012-10-19 19:29:06
@miohiroko

0474[元号]天明。天明と言えば大飢饉として有名。実際、この元号の期間はほとんどが異常気象や災害による大飢饉に襲われた。3年の冬はとても暖かく、立春になってから寒波が続けて到来。夏になったら浅間山が噴火し、灰の影響で冷夏。このため大凶作。これが4年間にも及んだ。

2012-10-19 19:36:16
@miohiroko

0475[元号]天明。7年、次の元号から名づけられた寛政の改革が始まった。松平定信による倹約や貧民救済などで、大飢饉を受けての当然の政策が多かったが、一方では出版物の取り締まりを行い、評価の分かれる部分もある。

2012-10-19 19:44:26
@miohiroko

0476[元号]寛政。かんせい。改元理由は不明。勘申者は菅原胤長。出典は春秋左氏伝。寛容が政治の要諦、という意味。江戸時代において五たび「寛」の字の登場。為政者は何よりも寛容、度量が大きくなければならぬ、繰り返しいましめられている。権力を持つと慢心し、驕り昂る。元号でそれを戒める

2012-10-20 06:32:36
@miohiroko

0477[元号]寛政。前述のように出版物の取り締まりによって一時的に窮屈な空気がみなぎったものの、長く続かないのが江戸時代。むしろこの幕府による圧迫が、表現方法を豊かにし、風刺にも磨きがかかるようになった。出自など直接批判は多くの人を動揺させ嫌悪させる。この時代に学びたいものだ。

2012-10-20 06:38:13
@miohiroko

0478[元号]享和。きょうわ。辛酉革命により改元。勘申者は菅原左煕。出典は文選。天に順って運を享け、人に応じてその義に和す、ということ。足掛け4年の短い元号だが、この間に伊能忠敬による全国の測量をはじめ、五街道ほかの道路整備事業の着手など国土全体を一つにする意識が高まり始めた。

2012-10-20 06:46:43
@miohiroko

0479[元号]文化。ぶんか。甲子革命により改元。勘申者は菅原為徳。出典は易経。意味は、天文を観察して事変を察し、人文を見極めて天下を治める、ということ。文化。現代ではむしろピンと来ない常用的な言葉だが、これを元号として使った江戸の先人たちのセンスはすばらしいと思う。しかも、→

2012-10-20 08:34:54