秀吉の「聚楽」の接尾語は、「第(だい)」か「城」か「よ~ん」かの大論争
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聚楽第の石垣、東西に32m 自然石で勾配(京都新聞)-Y!ニュース http://t.co/sSnFsuF9 ■聚楽第(聚楽城)安土桃山時代、関白:豊臣秀吉が政庁兼邸宅として、大内裏跡で1586年に着工し、翌年完成。秀次に譲ったが、秀次の追放と切腹後、徹底的に破壊したとされる。
2012-12-23 06:29:11そもそも当時の記録や書簡(日本やイエズス会)は聚楽第を「聚楽」「ジュラク」と呼び、故地に残る地名も「聚楽廻(じゅらくまわり)」。「第」の字を付けた同時代史料を見かけない。聚楽「第」という名称は当時を知らない近世人か、下手したら近代人の妄想では?遺跡名として紹介するには慎重さが必要
2012-12-23 13:35:22「聚楽」に接尾語をつけた同時代に近い史料は、管見の限り、西洞院時慶の日記を抄出した『聚楽亭行幸記』(みたいな名前のもの。うろ覚え。群書類従所収)のみ。後世の命名だろうから同時代史料と同列の情報ではないが、「聚楽亭」という表記は、「聚楽第」が「じゅらくテイ」であった有力な傍証だ。
2012-12-23 13:54:12ちなみに、聚楽第の「聚楽」を「ジュラク」と読むことは、イエズス会宣教師の記録や書簡に「Juracu」と綴られていることから確実です。
2012-12-23 16:44:21@momosaki_u1ro そうなんですね!ありがとうございますぅ。行幸の時、言経卿記や吉川家文書では「聚楽亭」ってあります
2012-12-23 20:49:31その辺の史料に「聚楽亭」とあるのですね。迂闊にも初めて知りました。御教示ありがとうございます。授業や研究で活用させて頂きます。 “@miyakonohigashi: @momosaki_u1ro 行幸の時、言経卿記や吉川家文書では「聚楽亭」ってあります ”
2012-12-23 20:56:24↓ということで、同時代史料に「聚楽」に接尾語が付いた史料を見かけない、というのは私の浅学による知識不足でしたので、訂正します。お恥ずかしい限り。私の見た史料が偏っていたようです。御教示の点、今度裏を取らせて頂きます。
2012-12-23 20:59:27@momosaki_u1ro おもしろいのでいろいろ。天正行幸、出納職在記では「聚楽第」ですね。『聚楽第行幸記』も文章中で「聚楽第」みたいです。聚楽の城とか聚楽の御所という史料もあるみたいです
2012-12-23 21:50:29同時代で「聚楽第」は初めて知りました。近世や近代の妄想とは言い過ぎたようで再度訂正、御教示痛み入ります。“@miyakonohigashi 天正行幸、出納職在記では「聚楽第」ですね。『聚楽第行幸記』も文章中で「聚楽第」みたいです。聚楽の城とか聚楽の御所という史料もあるみたいです”
2012-12-23 22:56:46聚楽会館 http://t.co/WxqRQZRR 『聚楽第址 此付近大内裏及聚楽第東壕跡』碑 http://t.co/HM944B6g ちょっと行き過ぎて『此付近聚楽第址』碑。あれ?副碑は? http://t.co/gXWyjvE1
2012-12-24 10:16:45今行われているであろう聚楽城現地説明会に、生き霊飛ばせたらいいのに(涙)。あの技習得はやはり従三位以上とか三槐とか博陸とか、色々資格が要るんだろうな(違)。
2012-12-24 10:21:46どんどん聚楽城と言っていただきたい。豊臣三都の城郭のひとつである。大坂城、伏見城ときて、なんで聚楽第(亭、てい、やしき)やの。西田直二郎ら大正期の研究者・教育者が碑銘や論文タイトルで定着させたものを何で未だにひきづる必要がある?
2012-12-24 12:42:07