結城秀康は「かわいそう」か?人質時代から病没までを追ってみた。

ネット上には結城秀康の逸話・推測・妄想ばかりがあふれているので、史料や本に基づいた情報を集めてみた。更新(7/28):人質時代から病没まで完了。秀康の動向を追加。
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アリノリ @a_ri_no_ri

結城秀康で検索をすると「不運」「不幸」「かわいそう」「不遇」などの言葉がつく。そう形容される理由は知っていたが、関連する本や史料を読むうちに「不幸」とするのは「違う」のではないかと思うようになった。以下に根拠となる史料や本から得た情報を載せていく。

2018-07-21 20:40:07
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康を「かわいそう」とする理由は、だいたい次の3つである。 1.父親に愛されなかった。 2.人質に出された。 3.兄なのに将軍になれなかった。 毒殺などという「憶測」もあるようだが、秀康の病死はほぼ確実なので、除外。

2018-07-21 20:40:21
アリノリ @a_ri_no_ri

この中で1番分からないのが、1.父親に愛されなかった、である。「愛されなかった」事実を知る人は「徳川家康」と「結城秀康」だけなので、こう断言できる人は家康か秀康である。

2018-07-21 20:40:46
アリノリ @a_ri_no_ri

このような「推測」があるのは、秀忠が城の外で生まれて家康が直ぐに秀康に会おうとしなかった+ギギという魚に似ているから御義伊と名付けた?という逸話からである。城外で大名の子が生まれるのはよくあることで、また、御義伊と名付けたのは家康ではなく信康(兄)との逸話もある。

2018-07-21 20:41:11
アリノリ @a_ri_no_ri

名付けたのが家康(父)・信康(兄)と2通りあるように、逸話は根拠不明瞭故にぶれる。そのため、逸話を「事実」として語るのは「間違い」のもとになりやすい。しかし、「逸話」は江戸時代に大量に創作された上に、昭和の小説まで「事実」のように雑誌やネット上に載っていることがある。

2018-07-21 20:41:31
アリノリ @a_ri_no_ri

見た情報が「逸話」か、根拠のある「事実」か。判別するには「出典」を確認してその「出典」を読み、根拠が確かな書状や日記などの「一次史料」に基づいた情報であるかどうか分かればいいが、そこまでできる人は僅かだ。基本は「出典」がない情報は信用しない、でいいだろう。

2018-07-21 20:41:58
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康誕生時の事情は同時代の史料では確認できない。秀康も家康も没した後の「逸話」にしかないため、事実は「不明」とするのが良い。ただ、信康から秀康誕生まで家康は「15年」も男子がいない。(15年の間に女子1人のみ)子が異様に少ない「事態」の理由は何なのだろうか?

2018-07-21 20:42:37
アリノリ @a_ri_no_ri

死亡率が高い戦国時代に後継者の男子が少ないのは、家にとって死活問題である。気になったので、家康の年齢と子と孫の生死を記した年表を作成して考察をしてみた。privatter.net/p/3555566 秀康誕生時の事情については、正室が関係する政治的事情も考慮すべきだろう。

2018-07-21 20:43:04
リンク privatter.net 徳川家康の年齢と子・孫 - Privatter 徳川家康の子・孫の生死を家康の年齢と比較するために年表をつくってみた。
アリノリ @a_ri_no_ri

次は「2.人質」についてである。人質に出された大名の子は父の家康(2歳)を含めて多数いるので、「人質」になっただけでは「かわいそう」ではない。「人質」になった妻子が「かわいそう」になるのは、人質として預けられた先で「殺された」ときである。

2018-07-21 20:43:24
アリノリ @a_ri_no_ri

訂正:家康(2歳)→家康(6歳)

2023-08-27 11:08:48
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康が初めて一次史料に出るのは秀吉の書状で、人質候補としてである。天正12年9月8日の前田利家宛の「家康惣領子十一ニ成候」が秀康を示す。秀康、久松定勝(家康の異父弟)、石川数正の実子が徳川の人質候補として載っている。但し、秀吉VSの織田信雄・家康の戦いは終わってない。

2018-07-21 20:43:48
アリノリ @a_ri_no_ri

9月21日には織田信雄が鉄砲に使う石灰の材料として牡蠣殻を運ばせており、この段階では和議のための話し合いをしつつ戦に備えてもいる。秀吉の書状と家忠日記によれば、和議が成立するのは11月。本願寺の貝塚日記には酒井忠次の実子も人質候補として載っている。

2018-07-21 20:44:08
アリノリ @a_ri_no_ri

人質を記した秀吉の書状は多い。秀康(家康実子)と石川数正実子は一貫して不動で、当初からの既定路線であったようだ。よって、於大の方の反対で定勝(家康の異父弟)の代わりに秀康が選ばれたという逸話は否定してよい。ただ、於大の方の反対で定勝が外された可能性はある。

2018-07-21 20:44:33
アリノリ @a_ri_no_ri

実際に人質となったのは、秀康(御義伊)と家臣の石川数正・本多重次の実子である。12月12日に御義伊は秀吉の「養子」として上洛するが、徳川の臣従?は上手く進まず、天正13年11月には石川数正が秀吉方に出奔。家康が上洛し正式に秀吉に臣従するのは天正14年10月である。

2018-07-21 20:44:51
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は名目だけとしても秀吉の「養子(猶子)」となっているので、普通の人質よりは身の安全が保証されている。兼見卿記によれば、天正13年10月には侍従に任官して参内。席次は秀次の次、宇喜多秀家の前。この翌月に数正が出奔。交渉の不調は秀康にさほど影響してないようだ。

2018-07-21 20:45:23
アリノリ @a_ri_no_ri

但し、秀康は安全でも数正と重次の子の保証はない。数正出奔の背景は小笠原氏の離反なども指摘されているが、実子の身の安全もあったのかもしれない。重次が甥源四郎と実子仙千代を勝手に交代?して、秀吉の怒りに触れたとされるのも同じ事情(交渉の不調)だろうか?

2018-07-21 20:45:52
アリノリ @a_ri_no_ri

貝塚日記は大坂に入った御義伊の共を1000人と記す。御義伊一行は筒井定次の屋敷に滞在した後、大坂城に入ったとされるが一次史料では御義伊の大坂での居場所は確認できない。本願寺は三河の一向宗との関係もあり、御義伊には何度か贈答を行い、その動向を記している。

2018-07-21 20:46:14
アリノリ @a_ri_no_ri

石川数正は秀吉と徳川の交渉を担当する取次であり、御義伊を送り届けた後も大坂と浜松の間を行き来していたようだ。天正13年4月には御義伊と共に秀吉の紀伊攻めに陣中見舞いに赴く。紀伊の雑賀は小牧長久手では織田・徳川と組んで大坂を攻撃した元味方。見舞っていいのか?

2018-07-21 20:46:35
アリノリ @a_ri_no_ri

同じ天正13年10月に御義伊は「侍従」となって参内。11月に離反した数正宛?とされる秀吉書状に「於義伊なとも迷惑ニ可被存候間」とあり、徳川との関係が悪化している状況にあっても御義伊が殺されそうな気配はない。交渉の決裂は人質の返却に繋がることもある。

2018-07-21 20:46:55
アリノリ @a_ri_no_ri

長宗我部と秀吉との間で前提条件の領土交渉がダメになったとき、人質の盛親が返されている。御義伊については、養子(猶子)になっていることもあり、返される可能性はなかったのだろうか?秀吉方になった数正は、その後も御義伊付きが続いたのか、九州攻めで秀康と同じ後詰にいる。

2018-07-21 20:47:25
アリノリ @a_ri_no_ri

数正出奔とともに秀康の名は一時的に追えなくなり、次に出るのは家康臣従後の天正15年4月9日の秀吉書状。「徳川三河侍従」と「羽柴姓」がない表記で、羽柴姓の佐々成政・蜂屋頼隆の前に名がある。頼隆の次が数正。豊前岩石城攻めで「後つめを被仰付、被作責候事」とある。

2018-07-21 20:47:45
アリノリ @a_ri_no_ri

幕府祚胤伝や秀康年譜では天正12年に「羽柴姓」を貰ったとあるが、秀康は天正15年でも「徳川」で「羽柴姓」ではない。また、年譜では12月12日に大坂城に入ったとするが、『家忠日記』では12日に浜松を出立→『多聞院日記』他では26日に大坂着である。年譜には誤りが多い。

2018-07-21 20:48:10
アリノリ @a_ri_no_ri

天正15年までに秀康は父親と同じ三河守となり、家康はこれ以前に左京大夫になっている。天正16年の聚楽第行幸では「三河少将豊臣秀康」と署名。以後は羽柴三河守→羽柴結城少将→羽柴結城中将→羽柴結城宰相と変わり、慶長5年の9月の関ヶ原が羽柴使用の最後になる。

2018-07-21 20:48:27
アリノリ @a_ri_no_ri

秀吉は秀康を可愛がった?ともされるが、他の養子(養女)のように何度も書状に名が載ることはなく、溺愛ぶりは豪姫・小早川秀秋の方が明らかに上だ。「於義伊なとも迷惑ニ可被存候間」と気遣ってはいるが、愛情発露が分かりやすい秀吉にしては、ごく「普通」な感じである。

2018-07-21 20:49:05
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