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2代将軍徳川秀忠について

徳川秀忠には、遅参や恐妻家が「ネタ」としてついて回るが、実際の秀忠についてはさほど知られてない。秀忠に関する史料は多くて追い切れないので、ポイントを絞り、秀忠について追ってみた。【まだ途中】
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アリノリ @a_ri_no_ri

江戸幕府2代将軍徳川秀忠には、関ヶ原の戦いの「遅参」と、正室お江に対する「恐妻家」が付いて回る。小説やドラマで誇張されたそれらは、実際ではないのだが、面白おかしいネタとして定着してしまっている。結果、秀忠と言えば、その2つで語られる始末だ。

2019-08-31 11:27:05
アリノリ @a_ri_no_ri

ネタとして面白いものは、面白くなるように誇張されているから面白いのであって、事実とは異なる場合が多い。秀忠について、上記の2つのネタを除くと、最近は大名への「改易=領地没収」の多さが強調されるが、上記の2つほどまだ一般化はしていないようだ。

2019-08-31 11:27:17
アリノリ @a_ri_no_ri

2代将軍秀忠が上の2つしかない凡庸以下な人間なら、当然、江戸幕府は15代まで続かない。豊臣(羽柴)のように2代目で潰れただろう。「遅参」と「恐妻家」ばかりが使われるのは、他に何に関わっているか知られてないのが大きい。実際、秀忠については研究が進んでいるとは言い難い。

2019-08-31 11:27:28
アリノリ @a_ri_no_ri

では、実際の2代将軍「徳川秀忠」はどんな人物で、何をしたのか。以前、主に一次史料を使ってまとめた兄の秀康と違って、秀忠は日記・書状他の一次史料数が格段に多く、分量が多過ぎる。 「結城秀康はかわいそうか?」togetter.com/li/1249028

2019-08-31 11:27:41
アリノリ @a_ri_no_ri

個人的に集めている史料は徳川家康時代のがメインであるため、幼少期から家康没時くらいまでに限定して、徳川秀忠の人生を追ってみることにする。 徳川秀忠が一次史料に初出するのは、天正14年(1586年)9月11日の『家忠日記』の「御長様」である。

2019-08-31 11:27:52
アリノリ @a_ri_no_ri

福田千鶴著『徳川秀忠』は天正13年の榊原家伝来の書「南無天満大自在天神」の「長丸」を初出とするが、<伝来>の書の信憑性には疑問があるため、初出を『家忠日記』とする。天正14年9月11日に家康は居城を浜松城から駿府城に替えた。(但し、間もなく浜松城に戻る)

2019-08-31 11:28:02
アリノリ @a_ri_no_ri

この日、『家忠日記』の筆者松平家忠(いえただ)は、祝いの品として「御長(おちょう)様(秀忠,実年齢7歳)」に「太刀折紙」を贈った。福田氏の『徳川秀忠』では、太刀折紙を贈られているのだから、この時点で既に御長は徳川の嫡男(後継ぎ)であったのだろうとするが、どうだろうか。

2019-08-31 11:28:12
アリノリ @a_ri_no_ri

これより前の天正12年9月8日の前田利家宛、秀吉書状に「家康惣領子十一ニ成候」とあり、この子は年齢他から次男の秀康(おぎい)なのは間違いない。同月17日にも秀吉は秀康を「家康嫡子」と記す。同時期の他の秀吉書状では家康の「実子」表記である。

2019-08-31 11:28:26
アリノリ @a_ri_no_ri

秀吉の書状は誇張傾向があり、これらは「家康が人質を出す=秀吉に屈服した」と宣伝するための書状である。当然、実子表記より惣領や嫡子表記の方が人質としての価値は高く、宣伝効果もある。ただ、この時点で実際に秀康が「惣領=嫡男=後継ぎ」であった可能性はゼロではない。

2019-08-31 11:28:36
アリノリ @a_ri_no_ri

天正12年(1584年)12月12日「濱松御きい様羽柴所へ養子ニ御こし候」(家忠日記)と、「おぎい」は秀吉の養子名目で人質として上方へ向かう。この時、おぎいは10歳(実年齢)で、お長は5歳。天正7年(1579年)に長男の信康は自害しており、嫡男はおぎいかお長となっているハズだ。

2019-08-31 11:28:54
アリノリ @a_ri_no_ri

天正13年10月に秀康は「徳川息侍従(=徳川家康の息子、侍従)」として参内(さんだい,=天皇の御所に上がる)し、天正15年4月9日の秀吉書状では「徳川三河侍従」と記される。これは秀康(13歳)の初陣であり、羽柴名字ではなく徳川のままで「三河守」になっている。

2019-08-31 11:29:05
アリノリ @a_ri_no_ri

「三河守」は家康が最初(永禄9年)に叙任された官職で、その三河守を秀吉は秀康に与えている。家康の三河守を秀康が継承している部分に着目すれば、秀康が後継ぎであるようにも見える。既に家康が秀吉に臣従した後なので、秀吉の独断でもないと思われるが、はっきりしない。

2019-08-31 11:29:24
アリノリ @a_ri_no_ri

徳川家康の後継は、次男か、三男か。 明確になるのは、天正17年である。 この年の4月19日に秀忠の母西郷殿が死去し、家忠はその知らせを21日に日記に記した。「駿川若君御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候」とあり、家忠は「お長」を初めて「若君」と表記する。

2019-08-31 11:29:39
アリノリ @a_ri_no_ri

以後、「お長」は継続して「若君」と書かれる。これは秀忠が家康の後継ぎに決まったためだ。秀忠がいつから「若君=後継ぎ」になったのかは不明である。『家忠日記』には天正14年以来の登場であり、天正14年では「御長様」表記なのだ。

2019-08-31 11:29:51
アリノリ @a_ri_no_ri

秀忠の幼名は「長丸」と書かれることもあるが、家忠日記及び貴族の日記で一貫して「お長」なので長丸ではなく「お長(おちょう)」である。秀康も「於義伊」と書かれるが、「お長」との並びからして「お義」を「おぎい」と読ませたのではないだろうか。家忠日記では「お(御)きい」表記である。

2019-08-31 11:30:00
アリノリ @a_ri_no_ri

次男が「お義」で三男が「お長」なら兄弟の並びとして不自然ではない。「お義」を「おぎい」と変わった読み方をするため、「い」発音に「伊」があてられたのではないだろうか。だが、「おきい」は秀吉の書状(天正13年11月17日)では「於義伊」、他の日記では「御義伊」と書かれる。

2019-08-31 11:30:12
アリノリ @a_ri_no_ri

「おきい」は「お義」か「お義伊」か? 当時の記録は耳から情報で発音だけ分かっている場合と、漢字表記が分かっていても筆者が読みを知らない事例とがある。平仮名で「おきい」と書かれて「き」に「義」が置かれる秀康は、幼名の発音が「おぎい」だったのは確実となる。

2019-08-31 11:30:23
アリノリ @a_ri_no_ri

秀吉の書状では「おきい」「於義伊」の2つ、家忠日記では「御(お)きいさま」。本願寺の『顕如上人貝塚御座所日記』では「御義伊ト云」「御義伊」。本願寺の書き方からして、「御義伊」は耳から情報っぽく見えるか、漢字表記は「義伊」としておく方が無難そうだ。

2019-08-31 11:30:40
アリノリ @a_ri_no_ri

「お長」については、秀吉の書状(天正18年4月4日)の宛名に「駿河長との」とあるため、「お」を外した「長」一文字が実際の名であったのかもしれない。秀康の「おぎい」の「お」も同じであろう。次男「義」三男「長」か、次男「義伊」三男「長」か?疑問を提示しておく。

2019-08-31 11:31:04
アリノリ @a_ri_no_ri

「丸」は男の子の名につける愛称であるようなので、長丸の「丸」も愛称なのだろう。丸を外して表記すると、家康の子達(男子のみ)の幼名は、竹千代(信康)、お義(伊)(秀康)、お長(秀忠)、福松(忠吉)、辰千代(忠輝)、松千代、仙千代、五郎太(義直)、長福(頼宣)、鶴千代(頼房)となるだろうか。

2019-08-31 11:31:15
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康の「おぎい」が他の兄弟の幼名から浮いていると言われることもあるが、秀忠が「おちょう」ならば発音の並びとしておかしくない。

2019-08-31 11:31:25
アリノリ @a_ri_no_ri

話を戻して、後継ぎ決定である。 天正17年4月以前にお長が家康の後継ぎになったとして、秀康との関係はどうなるのか、である。家康は天正18年比定される文書で7月29日に秀康の結城家入りを承認したとされる。

2019-08-31 11:31:35
アリノリ @a_ri_no_ri

当然、養子入りの話はそれ以前に秀吉が持ちかけている。家康が7月29日に了承しているのは、小田原の戦いが終わったのと徳川の関東入り決定から、だろう。秀康は結城家に入った後、葛西大崎一揆や朝鮮出兵では徳川配下として動いている。結城家入りも含めて秀吉の指示だ。

2019-08-31 11:31:45
アリノリ @a_ri_no_ri

家康の関東入りと秀康の結城家入りは無関係ではなくセットっぽい。秀康が結城を継げば、必然的に徳川の後継から外れる。秀康の養父となる結城晴朝(はるとも)は、信長存命時から徳川・織田勢力と接触がある。時期によって違うが、小田原の戦いの前の結城と後北条は対立関係にある。

2019-08-31 11:31:55
アリノリ @a_ri_no_ri

晴朝は先に養子とした朝勝(宇都宮広綱の子,母は佐竹氏,祖母が結城政朝娘)を除いて秀康を迎えたとされる。『秀康年譜』には天正17年春に晴朝が大坂に使いを出して、「晴朝齢五十ヲ過テ唯女子一人ノミ有テ嗣子ナシ、願クハ殿下ノ一族ヲ賜ヒ、婿トシテ家ヲ譲ン事ヲ請フノ由」とある。

2019-08-31 11:32:05
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