結城秀康は「かわいそう」か?人質時代から病没までを追ってみた。

ネット上には結城秀康の逸話・推測・妄想ばかりがあふれているので、史料や本に基づいた情報を集めてみた。更新(7/28):人質時代から病没まで完了。秀康の動向を追加。
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アリノリ @a_ri_no_ri

次の養父になる結城晴朝は天正5年に宇都宮広綱の三男(結城七郎朝勝)を養子に迎えて、後北条に対抗するために「結城ー宇都宮ー佐竹」の関係を強めていた。天正15年には朝勝に家督も譲り晴朝は隠居したようだが、天正18年春に朝勝は宇都宮家に戻り、秀康が養子に入る。

2018-07-21 20:49:25
アリノリ @a_ri_no_ri

結城朝勝の存在は晴朝が書いた過去帳からも抹消されているが、発給文書からその存在が指摘され、『下総結城氏』では結城継承を18代晴朝→19代朝勝→20代秀康(秀朝)とする。後継がいない晴朝が秀康を養子に迎えたのではなく、後継を追い出して羽柴・徳川から養子を迎えたのだ。

2018-07-21 20:49:51
アリノリ @a_ri_no_ri

小田原の戦いは天正18年春に始まるが、晴朝はそれ以前から羽柴と接触している。朝勝の代わりに羽柴・徳川から養子(秀康)を貰う話をいつ誰が提案したのかは分からない。晴朝には中央(羽柴)と繋がる利点があるし、秀吉も関東への影響を強めることができる。徳川はどうだろうか?

2018-07-21 20:50:12
アリノリ @a_ri_no_ri

家忠日記は秀忠(家康三男)を天正17年5月から「若君」と記す。天正14年に秀忠を「御長=長丸」と記して以来の記述で秀忠がいつから「若君=嫡男」扱いなのかが分からない。もし、この天正17年5月に「嫡男=後継者」になった場合、秀康の養子の話の前なのか後なのか?微妙な時期である。

2018-07-21 20:50:30
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康が父と同じ三河守であるため、その時点までは徳川の後継は秀康だった可能性がある。『秀康年譜』では天正17年春に晴朝が大坂に使いを出して女子(鶴姫)に婿と申し出たとある。結城家への養子案→秀吉が家康に打診→嫡男(後継)を秀康から秀忠に→朝勝が結城家を出る、か?

2018-07-21 20:51:03
アリノリ @a_ri_no_ri

先に誤りを指摘したように『秀康年譜』の信憑性は低く、結城家から養子の件を申し出た確証はない。ただ、秀康の養子入りのためには朝勝を外さなければならない。宇都宮家と佐竹家との交渉も必要だ。小田原の戦いの前から何らかの話はあったと見るべきだろう。

2018-07-21 20:51:25
アリノリ @a_ri_no_ri

家康の三男長丸は天正18年正月に上洛して織田信雄娘で秀吉養女の小姫と祝言を上げ、秀吉の一字をもらって「秀忠」となり、徳川の正式な後継となる。秀康の養子の件がこれ以前にあったからこその対応だろう。以後、天正19年から秀忠は父親と交代で在京し、秀康に代わる「人質」になる

2018-07-21 20:51:42
アリノリ @a_ri_no_ri

天正17年2月に家康は鶴松誕生に合わせて上洛している。秀康の結城家入りの要因として鶴松誕生が上げられることがあるが、「猶子」とも書かれるように秀康に羽柴の相続権はない。結城家への養子の理由は、結城か、羽柴か、徳川か。きっと1つではないだろう。

2018-07-21 20:52:02
アリノリ @a_ri_no_ri

小田原の戦いの後、天正18年7月29日に家康は「結城跡目之儀、三河守ニ被仰付段、忝奉存即相添両人ニ致進上候事」と黒田孝高・水野忠重宛の「覚」で秀吉の申し出を了承。秀康が結城家に入る際には家康の了解が必要であった。秀康が出した知行目録から9月21日までに晴朝は隠居。

2018-07-21 20:52:34
アリノリ @a_ri_no_ri

「結城家」の継承により、秀康は「徳川家」の後継から外れる。「徳川」を相続できない者が「将軍」を継ぐことはできない。秀康が「将軍」になる可能性は天正18年の時点でなくなったのだ。結城家入りを家康に申し出たのは、秀吉である。秀康が将軍にならない将来を決めたのは「秀吉」なのだ。

2018-07-22 09:40:42
アリノリ @a_ri_no_ri

結城家を継いだ「結城秀康」は、天正18年10月、葛西大崎一揆の鎮圧に動員される。同年11月晦日の榊原康政宛の秀吉書状と宛先不明の12月15日の書状から、秀康は家康の配下として戦に赴いたのが分かる。「三河守若候間、諸事心付肝要候」と康政宛の書状で秀吉は気遣いを見せている。

2018-07-21 20:52:52
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は同年の9月以前に結城を継いだばかりであるが、家康も8月以前に関東に引っ越したばかりである。親子揃って慌ただしいが、家康の関東配置と秀康の結城家入りは、いつからの秀吉の構想なのだろうか?領国経営のためか、家康が派遣された天正19年の九戸政実の乱には秀康は動員されていない。

2018-07-22 20:02:37
アリノリ @a_ri_no_ri

天正18年カと年次比定に疑問符がつく書状ではあるが、この年の5月、10月、11月の日付がある平岩親吉・鳥居元忠宛の秀康書状がある。内容からして5月は小田原の戦い、10月11月は葛西大崎一揆のときのものと思われる。養子に入る以前、天正18年より前の秀康書状は(今のところ)ないようだ。

2018-07-22 20:02:49
アリノリ @a_ri_no_ri

『秀康年譜』によれば、天正19年2月に晴朝養女(江戸重通娘=結城晴朝妹の子,鶴子)との間に女子が誕生。逆算すると、6月(天正19年閏正月あり)あたりの婚姻となる。秀康年譜の7月14日に「婚姻ノ礼を整へ」でも不自然ではない。翌年、秀康は朝鮮出兵のために九州名護屋へ向かう。

2018-07-22 20:03:09
アリノリ @a_ri_no_ri

天正20年(文禄元年)2月の知行充行が少しあり、次は文禄5年に多くの知行充行が出ているので、秀康の領国支配は文禄の役で中断されたようだ。(家康も同様っぽい)文禄元年?に比定される正月の松平家信宛の書状には「自去年之煩」とある。九戸政実の乱鎮圧への不参加は病もあったためか。

2018-07-22 20:03:29
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄元年2月に家康は江戸を出立し、京を経由して名護屋へと出陣。『秀康年譜』によれば、秀康も1500人を率いて父に従ったようだ。翌文禄2年8月に秀頼が誕生し、秀吉も家康も京へと戻る。秀康が名護屋から戻った年月日は不明だが、文禄3年6月には普請で上洛中の松平家忠を招いてもてなす。

2018-07-22 20:03:46
アリノリ @a_ri_no_ri

『言経卿記』によれば、家康は文禄3年8月21日に駕篭から落ちて体を痛めて、山科言経(やましなときつね)に薬を貰っている。3日後の24日に言経が家康の京屋敷を訪ねると、「亜相子息三河守殿」がいて10人ばかりの客と一緒に夕食を食べている。秀康は体を痛めた父を見舞ったのだろうか。

2018-07-22 20:04:06
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は文禄2〜5年まで年に一度は江戸に戻っているが、秀康は知行宛行が集中する文禄5年正月前まで領国に帰れなかったようだ。秀康年譜では、その間の文禄3年11月に嫡女が結城で死去。翌4年6月に側室中川氏との間に長男忠直が大坂?で誕生。以後、正室との間に子はない。

2018-07-22 20:04:23
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄3〜5年の京・伏見では家康・秀康・秀忠の徳川親子の交流が認められる。先の文禄3年8月以外にも文禄4年10月1日には家康・秀康・秀忠・伊達政宗が、家康の伏見屋敷で水無瀬兼成による伊勢物語の講釈を聞いている。これも『言経卿記』で確認できる。

2018-07-22 20:04:51
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄4年3月28日に秀吉が家康の屋敷に「御成」する。このときの『式御成之次第』に秀康の名が接待をする側とされる側の両方に見える。徳川の一員として秀吉に贈答品を渡しながら、結城家の者として食事を供されてもいる。徳川と結城の双方に秀康は属すのだ。翌文禄5年正月前に秀康は一度結城に戻る。

2018-07-22 20:05:08
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄5年(=慶長元年)に比定される秀忠の書状から、6月には秀康が伏見にいるのが分かる。「上洛候付、御使札本望之至候」と秀忠の上洛に合わせて秀康が使いと書状を送っており、「明日於伏見懸御目可申承候」と秀忠は秀康に会いたいと返事で伝えている。徳川兄弟は京で交流を深めていたようだ。

2018-07-22 20:05:25
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康年譜によれば、結城家は慶長元年には朝鮮出兵の負担や伏見屋敷普請などのために財政難に陥っていたようだ。本多富正(人質仲間の源四郎)の器量で立て直したとの話がある。年次比定されてないものであるが、家康→秀康の書状で家康が秀康が必要とする「袖印」を渡している。

2018-07-22 20:05:41
アリノリ @a_ri_no_ri

この家康→秀康の書状は意味が取り辛い内容であるが、家康は自分の所の袖印を染めさせるついでに秀康の分もつくろうと伝えているようだ。恐らく、財政状態があまり良くない息子を気遣ったのだろう。秀康は慶長の役では出兵していないが、計画はあったようなので、そのための袖標だったのか?

2018-07-22 20:06:04
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長2年12月には中川氏との間に次男忠昌が、3年8月には三谷氏との間に喜佐姫が生まれる。家康は正室存命中に子が少ない(orいない)状態であったが、秀康は側室とばんばん子を増やす。秀康没後に烏丸光広と再婚した鶴姫は男子を生しているから、正室との間は没交渉だったのだろう。

2018-07-22 20:06:19
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長2年10月には加藤清正から朝鮮での戦いや普請の様子を伝える書状を貰っている。慶長3年にはまた安堵状や知行宛行状が増えるため、2月には結城に戻ったようだ。慶長3年5月頃から秀吉の体調が悪化し、8月18日に病没。伏見にいた秀忠はその日のうちに?江戸へと戻り、家康の側には秀康がいる。

2018-07-22 20:06:39
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