結城秀康は「かわいそう」か?人質時代から病没までを追ってみた。

ネット上には結城秀康の逸話・推測・妄想ばかりがあふれているので、史料や本に基づいた情報を集めてみた。更新(7/28):人質時代から病没まで完了。秀康の動向を追加。
121
前へ 1 2 3 ・・ 6 次へ
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長3年10月3日の秀康→秀忠書状で、秀康は家康は息災であるから安心して欲しい、石田三成が晦日に九州に行ったことなどを秀忠に告げている。書状を通して秀康⇄秀忠兄弟が互いに情報や贈答品を送っているのが分かる。これ以降、家康の側には秀康、江戸に秀忠という形ができ、秀康が病没するまで続く。

2018-07-22 20:06:55
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長4年3月22日の秀忠書状でも、秀康が秀忠に上方の情勢を伝えているのが分かる。病の前田利家を家康が見舞っているのと、秀康が「六人のうちへ御入なされ」たのが分かる。この「六人」を五大老に+1として、秀康の大老入りを秀忠が「御尤」と記したと解釈できるものだが、秀康の大老入りはない。

2018-07-22 20:07:30
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康の大老入りは話だけで終わったようだ。翌月の慶長4年閏3月には七武将による襲撃事件があり、石田三成が佐和山へ引退する。秀康が近江の瀬田まで三成を送り、正宗(石田正宗)を貰ったのはよく知られた話だ。秀康を三成に付けたのは家康なので、本来は家康への礼の刀だったのかもしれない。

2018-07-22 20:07:45
アリノリ @a_ri_no_ri

『板坂卜斎覚書』によれば、秀康も三成に脇差を渡したらしい。刀の贈答はお礼としてよくある。この後、9月に家康は大坂城に入る。秀康は伏見城の留守を任されたと『板坂〜』にある。この本は覚書なので信用度は下がるが、後々、秀康は伏見城城代となるので、その最初とも言える仕事だ。

2018-07-22 20:08:00
アリノリ @a_ri_no_ri

秀吉が没する前から、秀康はずっと?上方にあり、家康の護衛として動いていたようだ。このとき実年齢で秀康は25歳、秀忠は20歳、忠吉19歳と、父家康57歳に対して子達の若年ぶりが目に付く。信康以後、15年もの間、男子がいなかったためだ。ただ一人戦経験がある秀康は頼りになっただろう。

2018-07-22 20:08:26
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長5年6月に家康は大坂を立って関東に出陣し、秀康も伏見を鳥居元忠に任せて領国に戻る。会津攻めである。しかし、上方で毛利輝元が石田三成ら奉行衆と組んで家康との敵対したため、家康は上杉を秀康・最上・伊達などに任せて江戸に戻る。対上杉を任された秀康の慶長5年の書状は多い。

2018-07-22 20:08:44
アリノリ @a_ri_no_ri

対上杉を任せた秀康に家康が甲冑・刀他を与えたとある。年譜には吉房作の刀、幕府祚胤伝では稲葉江。年譜には色々なエピソードがあるが、戦いがないまま対上杉の任務は終了。慶長6年に上杉景勝を伴って上洛し、上杉家の記録によれば、8月16日?に伏見城で家康に会い、景勝を取りなしたようだ。

2018-07-22 20:09:02
アリノリ @a_ri_no_ri

但し、大関左衛門督宛の秀康の書状には14日に北庄に着いたとあるため、上杉の記録の日付は信用できない。秀康に越前を与えることは慶長6年正月には決まっていたようで、秀忠が書状で祝いを述べている。それまでの10万石から一気に68万石に石高が増え、関ヶ原の戦いでは1番の加増を受けている。

2018-07-22 20:09:36
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康が越前に大大名として置かれたのは、対前田家のためである。要地に移った秀安は家臣団の増強をはかった。しかし、結城から越前に移る際に結城譜代の家臣は移住を望まずに残留する者が多く、結城四天王と言われた名家を除けば、大半は知行200石以下となり、結城家家臣は冷遇された。

2018-07-22 20:09:56
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康の「秀康給帳」には家臣の出身国があり、その出身は、三河>下野>遠江>美濃>尾張>武蔵>相模…と東海・関東に集中している。特に三河出身者は人数・知行の面からも家臣団の中核をなし、馬廻や番組の組頭、奉行・代官などの「役人衆」が多く、軍事・民政の面で三河優位の体制となった。

2018-07-22 20:10:10
アリノリ @a_ri_no_ri

越前に移るのを機に、秀康は徳川譜代化をすすめた。越前松平は親豊臣などと書かれることがあるが、三河武士中心の体制からして明らかに親徳川である。大大名である前田家に対抗するためもあってか、秀康は高禄で多くの者を抱えた。そのため、秀康の知行が少ないというマイナスが生じた。

2018-07-22 20:10:33
アリノリ @a_ri_no_ri

『秀康年譜』には秀康が「税ヲ薄クシ、民ノ疾苦スル所ノ箇条ヲ除」いたとあるが、実際は「しんてきに過分に出来、在所迷惑仕る」と訴えられているように、秀康のときに新設・増額された小物成(税)は多く、越前の人々の大きな負担になった。家臣に多くの知行を与えた弊害だろう。

2018-07-22 20:10:47
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康の結城に対する態度として特筆すべきは「秀朝」という名の一時使用だろう。秀康は慶長3年の2月に結城晴朝から一字を貰った「秀朝」を使っているが、同年中に「秀朝」の使用を止めて、「秀康」に戻している。結城の「朝」ではなく、家康の「康」を秀康は選んでいる。

2018-07-22 20:24:39
アリノリ @a_ri_no_ri

さて、最後は 3.兄なのに将軍になれなかった、である。先に書いた通り、結城家に養子に入った時点で秀康は徳川家を相続できなくなった。弟に惣領を継承されたのを不満に思うとの話を載せるのは『兵家茶話』である。それで諸事が手荒くなったと続くが、そんな次男に家康は朝廷対応を任せたのか?

2018-07-28 12:37:08
アリノリ @a_ri_no_ri

家康が「江戸は秀忠、上洛するときは秀康と一緒」を続けたのは、伏見城城代と朝廷・西国対応を秀康に任せるためであったようだ。秀康ならば上方暮らしも長いし、越前は京に近い。越前68万石に加えて、伏見城を任されている時点で秀康が家康に信頼されているのは確実である。

2018-07-28 12:37:28
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は家康から見ても明らかに親徳川なのだ。それがどうして親豊臣になるかといえば、名目上でも秀吉の養子であった、弟が将軍になっているのは面白くないに違いない、越前騒動、元家臣(御宿勘兵衛)で大坂の陣で大坂方についたのがいる、嫡男忠直の不行跡あたりからの推測だろう。

2018-07-28 12:37:46
アリノリ @a_ri_no_ri

ちなみに大坂の陣で大坂方についた御宿勘兵衛(越前守)は1万石の重臣という情報があるが、『結城秀康給帳』では「御鉄砲頭衆500石」の一人に過ぎない。秀康死後も最低3年は忠直に仕えており、忠直と合わずに辞めたにも「?」がつく。親徳川の秀康にとっては裏切り者でしかない人物であろう。

2018-07-28 12:38:40
アリノリ @a_ri_no_ri

『大久保家留書』に慶長5年の冬、家康が大坂城で「秀忠・秀康・忠吉」の誰が家督を相続すべきかと、大久保忠隣、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、平岩親吉、本多正信に尋ねたところ、忠隣は秀忠、正信は秀康を推したとある。忠勝,直政,康政,親吉は「所存之通一々被申所」とあり、誰を推したのか不明。

2018-07-28 12:39:01
アリノリ @a_ri_no_ri

秀忠の『徳川実紀』に採用されている話であるが、この逸話は少し変だ。秀忠は天正18年に秀吉公認の嫡男(後継)になっているし、意見が明瞭なのが忠隣と正信だけなのである。失態とされる第2次上田合戦は実際はちょっとした小競り合い程度で戦はなく、遅参も天候などが要因で秀忠の落ち度ではない。

2018-07-28 12:39:21
アリノリ @a_ri_no_ri

関ヶ原の戦いの後に大坂城に入った徳川家は非常に忙しい。秀吉時代の権利を認めてもらおうと多くの人々が押し掛けていたからだ。山科言経も家康に会いに出向ているが、数日待たされている。戦の論功行賞や毛利・島津との交渉もある。そんなときに家督相続問題などを重臣に聞くだろうか?

2018-07-28 12:39:36
アリノリ @a_ri_no_ri

秀忠は慶長5年11月18日に忠吉とともに参内。家康は忠隣しか家督相続に賛成していないボンクラを、天皇と会わせたのか?忠隣が大久保長安事件で改易される点を踏まえれば、この『〜留書』が書かれた理由も分かるだろう。この話は将軍となった秀忠を評価した忠隣を持ち上げるためのものなのだ。

2018-07-28 12:40:06
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長7年2月に家康は上洛し、10月まで在京する。『言経卿記』によれば、秀康も7月5日に「先結城宰相殿(内府息)ヘ罷向、自倉部ユカケ二具進了、盃酌云々、次内府ヘ罷向、夕食有之」と冷泉為満・山科言緒(ときお,言経の子)の訪問を受けていて、在京しているのが分かる。

2018-07-28 12:40:24
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長3年に始まった「秀忠は江戸、家康の上洛には秀康が同行」は慶長7年も同じ。2人とも伏見にいて、為満・言緒が秀康を訪ねた後に家康を訪問しているので、家康と秀康の居場所は近かったと思われる。家康は伏見城にいて、秀康は伏見屋敷だろうか。同じ城内にいた可能性もある。

2018-07-28 12:40:41
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長7年は家康の母於大の方も上洛して参内し、8月28日に伏見城で家康に看取られて没する。秀康が祖母の死没に居合わせたかどうかは不明。家康は10月2日に出立して江戸に向かう。次の書状と同年の蠟燭屋などへの黒印状からして、秀康は9月までには越前に戻ったようだ。

2018-07-28 12:40:57
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長7年11月15日の秀忠→秀康の書状で、秀康の役割が対前田家であったのが分かる。同年10月晦日に金沢城に落雷があり、天守が炎上した。秀康はその情報を得ると、直ぐに弟の秀忠に知らせている。秀忠からの返書が15日付なので、金沢→越前、越前→江戸の伝達速度を考えれば、秀康の報告は早い。

2018-07-28 12:41:20
前へ 1 2 3 ・・ 6 次へ