白石一文『翼』ツイッター連載小説
- kounoeakira
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翼 2-2 「お久しぶりです」 私はお辞儀をしながら岳志の前の丸椅子に腰を下ろした。椅子の背に身体を預けていた岳志が背筋を伸ばした。顔かたちも体型もちっとも昔と変わっていない。
2013-05-26 08:12:11翼 2-3 「誰かほかのドクターと代わった方がいいかな」 医師の表情に戻って訊(き)いてきた。 「いえ。かまいません」 と返事しながら、こうやって言葉を交わすのは何年ぶりだろうと考えていた。 最後に電話で話をしたのは彼が聖子と一緒に渡米する直前だった。あれはもう十年も前だ。
2013-05-26 08:15:01翼 2-4 喉を見たり、肺の音を聴いたりと型通りの診察を受けながら互いの近況を喋り合う。十年の歳月に「近況」というのもヘンだが他に言いようもない。岳志が留学から戻ったのは二〇〇二年だったという。ちょうど私が浜松に行って二年目の頃だ。
2013-05-26 08:16:59翼 2-5 「聖子もたまにきみの話をするんだよ。どうしてるのかなあって。そうか。ずっと浜松だったんだ」 聴診器を背中にあてながら岳志が言う。 「聖子(きよこ)、元気ですか?」 「二人の子供たちにおおわらわで毎日駆けずり回ってるよ」
2013-05-26 18:56:41翼 2-6 はい結構ですよ、のあと岳志が明るい声で言う。捲(まく)り上げていたブラウスを元に戻しながら、 ――あの聖子がもう二児の母か。 と思う。
2013-05-26 18:57:54翼 2-7 誰それが結婚したという話にも、誰それに子供ができたという話にもさほど心は動かない。だが、聖子がこの長谷川岳志とちゃんとした家庭を築いているという現実には小さな違和感があった。 なんでだろう? と頭の中で呟いたあと、回転椅子を回して岳志と向き合った。
2013-05-26 19:01:27翼 2-8 「ただの夏風邪だね。念のためインフルエンザの検査をしてもいいけど、まあ心配ないと思うよ」 岳志は気さくに告げると、 「まだ時間はあるの?」 と訊いてくる。
2013-05-26 19:05:04翼 2-9 「午前中は丸々空けてます」 私は衣服を整えながら答えた。 「だったら点滴やってけばいい。熱を下げたいならそれが一番だ」 午後から大事な商談が入っているのでどうしてもこの高熱を下げてほしい、と真っ先に頼んだのは私だった。
2013-05-26 19:07:08翼 2-10 「いいんですか?」 ここに点滴を受けられるような部屋があるんだろうか? 「もちろん。ただし二時間くらいは横になってなきゃいけないけど」 念のため腕時計の針を見る。まだ九時半だ。 「じゃあ、ぜひお願いします」
2013-05-26 19:08:37翼 2-11 小さく頭を下げた瞬間、すっと腕がのびてきて岳志の右掌が私の額に触れた。しっとりとした冷たさが伝わってくる。長いこと忘れていた感触だった。 「もうずいぶん下がってるね。きっと十年ぶりにこうして僕と会えたからだ」 当たり前の口調で岳志が言った。
2013-05-26 19:10:13翼 2-12 岳志は看護師に指示を出すのではなく、席を立って自ら点滴用の部屋まで案内してくれた。彼のあとをついて診察室や検査室などが並ぶ廊下を真っ直ぐに進む。耳鼻科の先の突き当たりに白い金属製のドアがあった。そのドアを岳志は引いた。
2013-05-27 12:02:01翼 2-13 「隠し部屋みたいだろ」 足を踏み入れながら言う。 「VIPの診察にもときどき使うんだ」 顔を近づけて耳打ちするように付け加えた。
2013-05-27 12:04:15翼 2-14 部屋は大きく二つに分かれていた。右側はベージュの壁で中央に木製の扉が嵌(は)まっている。そちらが診察室なのだろう。左には病院用ベッドが三つ並んでいた。各ベッドはグレーのカーテンですっぽり覆われるようになっているが、いまは無人なので仕切られてはいなかった。
2013-05-27 12:06:15翼 2-15 「好きなベッドを選んでいいよ。たぶん誰も来ないだろうし」 岳志は入口に立っている私を置いて奥へと歩いていく。窓のない壁にはスチール製の棚やロッカーが並んでいた。
2013-05-27 12:09:16翼 2-16 ロッカーの一つを開けて青いシーツのようなものを持ち出してくる。私は左の壁際のベッドに座って待っていた。 「検査用だけど、よかったら」 と言って岳志が手の物を渡してきた。受け取って広げるとパジャマの上下だった。
2013-05-27 18:26:38翼 2-17 「そのスーツ、皺(しわ)が入らない方がいいだろ。ナースに点滴の用意をさせるからそれまでに着替えておいて。服はあのロッカーに吊るしておくといいよ」 扉が開いたままのロッカーを指さしたあと、岳志は診察に戻って行った。
2013-05-27 18:28:42翼 2-18 点滴が始まったのが九時四十五分。 パジャマ姿になってベッドに寝ているあいだ、なかなか薬液が減らない点滴パックを見つめながら長谷川岳志とのことをさまざまに思い出していた。といっても一つの事柄を除けば彼との付き合いは浅く淡いものでしかなかった。
2013-05-27 18:30:51翼 2-19 初めて出会ったのは大学四年のときで、彼は私の親友・島本(しまもと)聖子の恋人だった。そして、岳志は最後まで聖子の恋人であったし、私はあくまでその友人にすぎなかった。
2013-05-27 18:32:09翼 2-20 就職して二年目の秋、聖子と岳志は結婚した。式には私も出席した。 ウェディング姿の聖子は美しかった。二十九歳の長身の岳志はとても凛々(りり)しかった。誰もが口々に似合いの夫婦だと言っていた。私もその通りだと思った。
2013-05-28 09:35:59翼 2-21 結婚後は聖子と会うことはほとんどなかった。翌年には岳志の留学が決まり、新婚の二人はアメリカへと旅立っていった。
2013-05-28 09:37:20翼 2-22 当時の私は総務部の仕事を一年こなしたところで営業部に回され、仕事を一から覚えるので精一杯の状態だった。あんなに仲良しだった聖子と疎遠になるのは残念だったが、私の方からできるだけ距離を置くようにしていた。
2013-05-28 09:39:58翼 2-23 しかし、浜松に転勤になっていたとはいえ、とっくに帰国しているだろう聖子から年賀状一枚届かなかったこの数年は、私にあれこれ想像させるのに充分の時間だった。 彼女は何か勘づいたのではないか?
2013-05-28 09:42:21翼 2-24 きっとそうに違いないと睨んでいた。だから私との縁をきっぱり断ったのだと……。 点滴が終わる際、岳志は立ち会わなかった。最初と同じ若い看護師が来て、上手に針を抜いて後処理をしてくれた。 十二時過ぎに私はクリニックを出た。 <第2章 了>
2013-05-28 09:46:32ツイッター連載小説『翼』 @kounoeakira が更新されました。これで第2章まで終わりました。皆さん楽しんでますか〜⁈ 今朝の読売新聞で紹介されてからフォロワーが急増中。読売新聞文化面を今すぐチェック! http://t.co/EVSOrf9k1o
2013-05-28 12:08:13翼 3-1 「一度、ゆっくり時間を貰えないかな」 点滴が始まって十五分もした頃に、不意に岳志が言った。 「時間ですか?」 私は問い返す。 彼は頷(うなず)いて、 「近いうちがいいんだ。来週あたりどうだろう」 と言った。
2013-05-29 09:36:32