うちの親伝説・GHQ

終戦後の日本。占領軍GHQで働くことになる。そこで初めて触れる「本物のアメリカ」は父にとって衝撃的だった。 時代順では「うちの親伝説・芋倉」「うちの親伝説・渡米」よりも前に来ます。
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【GHQ23】米軍の門衛にその「肥料」を汲み取らせてくれることを頼む決意をした。しかし、どう考えても自分の英語力では力不足だ。父は伯父に一緒についてきてもらうことを頼むが、米兵は恐ろしいと聞いていた。門衛はライフルを持っている。決死の覚悟だった。(つづく)

2013-04-11 12:41:48
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【うちの親伝説・GHQ24】しかし、アメリカを直に知る伯父は落ち着いていた。町で恐れられる米兵に堂々と近づくと、驚くほど流暢な英語で門衛に話しかけた。伯父は人糞を「human waste」と訳していた。スラングも使って、米兵を笑わせていた。父は圧倒された。

2013-04-11 19:12:12
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【GHQ25】本当はうまい言い訳をして、門衛の機嫌をとるつもりだった。でも、伯父はそうはしなかった。「みんな困っている。食べ物がない。どうか助けてくれ」正直に米兵に頼んだだけだった。信じられないことに、許可はすぐに下りた。米兵は同情してくれたのだ。

2013-04-11 19:12:21
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【GHQ26】汲み出した肥料は困っている農家の人にも分けて回った。その代わりにもらった小麦を伯父に渡すと、伯父は「これで食パンを焼いて、鰯の缶詰で米国式ブレックファーストを食べたいなあ」と笑いながら言った。その言葉に忘れかけていた雑誌の風景が過ぎった。

2013-04-11 19:12:59
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【GHQ27】しかしまもなく、その伯父はブレックファーストを食べることなく、戦後の相次ぐ不幸の中で失意のうちにこの世を去った。伯父が父に残したのははるかな異国への憧れと、英語への興味と、「人が一年でやることを十年かけてやれ」という言葉だけだった。(つづく)

2013-04-11 19:13:53
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【うちの親伝説・GHQ28】幼い頃に戯れに読み始めた言語が、自分の唯一の武器だと気が付いた父は、「もっと英語がうまくなろう」と今まで以上に真剣に考え始める。夢などと言った甘いことではなかった。伯父の姿を見て、生活のために英語が役に立つことを初めて気がついたのだ。

2013-04-12 09:03:40
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【GHQ29】当時の学校で教えてもらえる英語だけでは話にならなかった。本物の英語にもっと触れたかった。しかし、英語を教えてもらえるような外国人の知り合いがいるはずもない。父は思案の末、ある突拍子もない考えににたどり着く。

2013-04-12 09:05:13
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【GHQ30】当時、戦時下に日本に取り残されたインド人の一団が、人里離れたところに住んでいた。一般の人はあまり近づかなかったが、父はその人たちが「インド独立の志士」と言われた人たちで、一人はケンブリッジ大学の出身だということを知っていた。(つづく)

2013-04-12 09:05:23
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【うちの親伝説・GHQ31】畑でできた芋と野菜を持って、父はインド人のところを訪れ、「英語を教えてくれないか」と無茶な交渉を始めた。話してみれば意外なほどの文化人だった。父の異様な熱意に打たれ、朝七時から一時間でいいなら、という条件付きで相手は先生を引き受けた。

2013-04-12 18:48:16
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【GHQ32】毎朝、早起きしてインド人の元へ通うことになった。授業料は一週間に一回、持っていく野菜。一冊しかない英語の本を繰り返し暗記して朗読する。そうして徐々に発音を身につけていった。そのまま畑に行くので、ボロボロの野良着で通う、蚊帳の中の小さな学校だった。

2013-04-12 18:48:45
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【GHQ33】教えてもらったのは英語だけではなかった。ある時、蚊帳の中に入ってきた蚊をたたこうとすると止められた。「生まれ変わった先祖が会いに来たのかもしれない。命を大切にしろ」と先生は言った。日本や米国以外にも、色んな考えがあることを父は「蚊帳の学校」で知った。(つづく)

2013-04-12 18:49:47
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【うちの親伝説・GHQ34】そうして畑仕事と英語の勉強の日々が続いた。作った芋は貯蔵のため、兄弟と共に庭に芋穴を掘り、危険を顧みず、その中に蓄えていった。(この芋穴の半世紀後の発見については「うちの親伝説・芋穴」を参照。)http://t.co/YdR4gaY6E3

2013-04-13 12:20:49
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【GHQ35】まともな家屋がまだ足りなかった。森の中に捨てられた合掌組を10組ほど見付けた父は、それと近くの廃倉庫の建築資材を使えば、自分たちで家を建てられるのではないかと考え始める。しかし、木材はとてつもなく重い。長距離を人力で運ぶのは無理だった。

2013-04-13 12:21:15
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【GHQ36】相変わらず旧陸軍経理学校の便所の汲み出しを続けていく中で、父は徐々に米軍の兵士と言葉を交わせるようになっていた。そして、ある時、敷地の隅に放置されていた意外なものを目にする。――移動式の古い消防器である。(つづく)

2013-04-13 12:22:32
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【うちの親伝説・GHQ37】消防ポンプが手押し車に載っているだけのものだったが、父はその手押し車のタイヤの丈夫さに目を見張った。上のポンプは軽く見積もっても1トンはある。これを載せて走ってもパンクしないタイヤであれば、きっとあの重い木材も運べるはず。

2013-04-13 21:35:32
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【GHQ38】捨てられたものなので持っていっても問題はなさそうだったが、どんなにがんばっても、上のポンプを一人ではずすことはできそうもなかった。しかも、ここは米軍の施設の中。糞尿汲み出しの許可を特別にもらっている自分以外、手伝いを連れて入れるはずがない。

2013-04-13 21:35:40
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【GHQ39】なんとかこのまま家まで持って帰るしかない。しかし、それができる方法はただひとつ。米軍のジープを借りることだった。しかし、それを貸してくれなどというのはあり得ない事だった。英語の得意な叔父はもういない。――やるなら自分の力で交渉するしかなかった。(つづく)

2013-04-13 21:35:49
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【うちの親伝説・GHQ40】顔見知りになっていた門衛の一人に父は話しかけた。幼い日から覚えてきたこと、学校で習ったこと、インドの志士に聞いたこと、そして伯父の会話から覚えていることの断片を繋ぎ合わせて、必死に門衛に頼んだ。果たせるかな、英語は通じた。

2013-04-14 17:02:44
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【GHQ41】父のしつこさに、門衛はついに承諾する。やがて米兵がジープで消防器を運んで来た時、家族はただ驚いた。なぜ米兵がわざわざジープで手押し車を運んで来てくれたのかが、さっぱり分からなかった。――父はこの手押し車を自分の「ジープ」と名付けた。

2013-04-14 17:03:12
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【GHQ41/資料】父の「ジープ」の写真が残っていました。左から当時の父、弟さん、そして父のお母さん。父が足を載せているのが「ジープ」のタイヤ。右手に持っているのは大根。お母さんの背後に大根が山ほど積まれているのがかすかに見えます。 http://t.co/7ETMNIlWC8

2013-04-14 17:06:02
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【GHQ42】思った通り、その頑丈な手押し車は何を運んでもパンクしなかった。さっそく資材を集めて回った父とその家族は、素人知識だけで家を建て始める。あるのはロープと人の力だけ。おかげですべての作業が命懸けのものとなった。(つづく)

2013-04-14 17:06:20
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【うちの親伝説・GHQ43】何度か危ない思いをしながら作り上げたその家を、家族は「合掌の家」と名付けたが、父は以前読んだ英語の本のフレーズから、ひそかに「home, sweet home」と呼んでいた。九十になった現在も、父はよく自分の家をこう呼ぶ。

2013-04-15 05:33:00
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【GHQ43/資料】当時の東京都小平市。これは「合掌の家」のあとに作られ、昭和の終わりまで父の母が住んでいた家。現在のスタジオ・エトセトラはこの家の跡地に建っています。芋穴が出てきたのもこの庭です。 http://t.co/ywigNMHsqx

2013-04-15 16:56:34
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【GHQ44】やがて夜間学校を卒業した父は大学の英文科へ進学する。入学試験の口頭試問で「好きな英文学の時代はいつだ」と聞かれて、迂闊なことを言ったら何も知らないのがばれると思って黙り通したが、結果は合格だった。大らかな時代だった。

2013-04-15 05:33:15
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【GHQ45】経済学部ではなく、英文学部などという実用性のない学部に入ったことに兄弟は呆れた。でも、父はやっと念願の英文学にたどり着いたことがうれしかった。アメリカに行くことはもはや無理だろうが、これで好きなだけ文学が読めると思うと幸せだった。(つづく)

2013-04-15 05:33:24
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