映像・コミュニティ・アーカイブ——『懐かしさは未来とともにやってくる』刊行記念トーク・イヴェント
佐藤さん。タギングをアーキビストに任せるのではなく開いて行く可能性もありうる。原田さん。必要としていなかったものが検索に引っかかることも面白いけれども、それが過剰になったら問題。また、何が重要なのかも、時代的なコンテクストやよって変わりうる。
2013-11-04 20:21:34司会の松谷さんから。神戸映画資料館にフィルムや広告写真、パテベビーがあってそれの整理を行っている。運動会の映像とチャップリンの映像が混在し上映されていた。それをどう考えて行けばいいのかとかを考えた。
2013-11-04 20:24:49会場からの質問。映像アーカイブについての議論は最近話題になったいる。整理しなければいけないのは、パテベビーが当時どのようなアーカイブを形成していたのかと、現在それらを未来に向けてどのようにアーカイブしていけば良いかという位相がある。
2013-11-04 20:26:56セクーラの議論は潜在した不可視のアーカイブをシャドーアーカイブとよんでいたけど、現在のデシタル環境ではそれが可視化されている。
2013-11-04 20:28:16水島さん。アーカイブの問題は、現在散財してしまっているものに対するアクセス回路を作ること。そのなかで思考すること。残すこと、というよりも、残ってしまったものをどう整理するのかという考え方。そうすることでナショナルなアーカイブに対するカウンターなりえるのでは。
2013-11-04 20:29:56前川さん。セクーラは不可視性による可視的なものの動揺を目指していた。記録と記憶の関係を反転させようとする水島さんの議論。
2013-11-04 20:31:59質問者。古文書的なアーカイブの仕方は映像メディアには適用し難い。アーカイブにとりくむ理論的な議論がアップデートされないままに、映像メディアのアーカイブが議論されている。
2013-11-04 20:33:15原田さん。アーカイブとは、理由とか根拠とかを作りてが示すべき。単に内容を残したいというのではなく、考え方やノウハウを残したい。
2013-11-04 20:34:48佐藤さん。アーカイブとは?体系性のこと?原田さん。モノはもちろん大事。残りやすいモノと、残りにくいモノがある。映像もまた残しにくい使いにくいものとして成り立っている。それが一番重要なのではないか。単に集めてタグをつければ商品になってしまう。
2013-11-04 20:36:57次の質問者。誰がどこで見ていたのかが気になる。かつて百貨店の催事場で、映画のフィルムが展示されていた記録写真を見たことがある。写真、映画フィルムもおなじような扱いだったのでは。百貨店というのが人が集まる重要なのは場であったのでは?
2013-11-04 20:39:51水島さん。映像をやっていた人と写真やっていた人は重なっていた。原田さん。新潟に残っているものに三コマくらいで切ったフィルムもある。人にあげていたりしていた。最後に残ったものを奉納したりもしていた。
2013-11-04 20:41:38以上で終わりです。松谷さんより。来年の三月に神戸で大きな映像アーカイブに関するシンポジウムを開催する予定。そちらにも是非おこしください、とのこと。
2013-11-04 20:43:05今日のトークイヴェントは、適度な狭さの中で、互いに呼吸を確認しながら、デリケートな問題を文字通り「膝詰め」で話し合えてよかった。横浜とは全く違う。市民活動が分厚い横浜に対し、関西は研究志向が濃い。地方巡業はこうした土地の空気の違いに脳みそをチューニングしていく緊張感がいい。
2013-11-05 00:35:40今日は僕が持ってるパテ・ベビー映像の中から「運動会」映像だけピックアップして上映しました。これだけの運動会映像が1930年代にある意味。一つ一つの競技のこと。コミュニティの中の位置。これから考えねばならないことが沢山あります。
2013-11-05 00:49:33今回のトークイベントと関連するものとして大正イマジュリィ学会の学会誌『大正イマジュリィ』(No.8、2013年3月発行)で、「映像に見る1930年代日本の〈小さな歴史〉」という特集を組んでいます。
2012年に横浜で行われたシンポジウムを踏まえたもので、トークイベントに登壇された、佐藤守弘さん、水島久光さん、原田健一さんが、(そしてこの纏めを編集した林田も)寄稿されています。
- シンポジウム報告「映像とミクロヒストリー」(佐藤守弘)
- 遍在する残像 パテ・ベビーが映し出す〈小さな歴史〉・研究「序説」(水島久光)
- 映像をめぐる小さなコミュニティの〈小さな歴史〉―1930年代の新潟の映像からみえてくるもの―(原田健一)
- 私的・写真・集積―歴史の中の私的な写真―(林田新)