松平定信-その功罪を、あらためて考える
- gryphonjapan
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もちろん程度問題で、田沼が自由思想家だったはずもなく、締め付けの程度ということですが。 落首や狂歌は「所詮は庶民どもの風俗」という”見くびり”が逆に黙認に、「それも思想表現、民の思いじゃ」という”評価”が弾圧になるという逆説もありますしね。@nonomaru116
2014-01-09 22:33:45逆のIFでは「定信時代にあんな目立つ形で『解体新書』が出たり平賀源内がハデに活動していたら、やはり睨まれて、芽を詰まれたのではないか?」という話もありますが、しょせんIF話とはいえ、どうだったでしょうかね。 @nonomaru116
2014-01-09 22:30:43@gryphonjapan どうでしょうね。平賀源内も結局後に残った仕事って、派手な活動ではなく戯作や脚本などの著作が主ですし。杉田玄白は田沼失脚後の定信登板を「かくのごとき聖代に逢う嬉しさ」のように表現していた人ですし、時宜に合った発表の仕方をしていたんではないかと思います。
2014-01-09 22:35:14togetter用「…経済秩序の樹立を目指す彼(田沼)は,ロシアとの交易を含む革新的な政策を次々に打ち出す.だが行手には松平定信率いる保守派のクーデターが待ち受けていた.金権政治家のイメージを払拭し真の意次像… http://t.co/A24NViiMbY
2014-01-09 23:07:36togetter用資料 ことしは大石慎三郎氏没10周年か。 / “大石慎三郎 - Wikipedia” http://t.co/Ql21f0mGM8
2014-01-09 23:08:29@gryphonjapan よろしければこれも→「田沼意次と松平定信のそれぞれの改革」 http://t.co/NcrScNvNbf http://t.co/4GLs25Y2Ea
2014-01-09 23:29:32追加
@gryphonjapan @nonomaru116 林子平の処罰に関しては、幕府はあくまで軍事組織であり、当然指揮命令系統は上から下へと一元化されており、それに反する行為は、現代軍隊と同じく、軍事組織として認められない、、という面も見るべきだと思います
2014-01-10 18:29:30うむ、幕府は元々軍事政権(あるいはヤクザの仕切り)というのは分かるのですが、同時にその組織が民生や教育まで施す経世済民の「政府」に変化していく歴史だったと思うのです。 http://t.co/TIVzHXGZqA そもそも(続く) @1059kanri @nonomaru116
2014-01-11 03:54:33(続く) http://t.co/TIVzHXGZqA はそもそも、その視点で比較して定信は田沼以上だった、とするものでしたね。 在野の知識人の常識的な政論を、許容したりフィードバックしたりするのもどこかで必要な政府機能で(続く)@1059kanri @nonomaru116
2014-01-11 03:58:23(最後)実際、海国兵談が当時の世を乱す書だったとも思えません(蟻の一穴を恐れた?)。この判断は特に為政者の胸先三寸でしょうから、両者にとり惜しまれる処罰だったかとと思います。庶民の政道批判も含め、田沼時代と比べるとどうなんだろう? @1059kanri @nonomaru116
2014-01-11 04:05:52そういえばtogetterにも出てくる大石慎三郎氏は「今に残る史料に田沼(の金権の)批判が多いのは、田沼が自身へのご政道批判・風刺をかなり許容し、自由な空気があったからこそだ」という逆説的な指摘をしていた記憶があるな。
2014-01-11 04:09:31(引用)『松平定信って、若い頃に戯作ものしていたり、妙に下世話なものに通じていたり、好奇心旺盛だったりなわけで実際には大田南畝とか山東京伝とかに近いメンタリティ持っていたんじゃないかと思うんですよな。それを武士のあるべき姿とか朱子学的価値観とかで(ごく自然に)抑えていたわけで。』
2014-01-11 04:31:33※ひとつ前のツイートは@nonomaru116さんの https://t.co/vu1LddGEX8だが、古いためtwitterの検索では出てきてもtogetter作成時の検索では出てこない。採録するためコピペした。
2014-01-11 04:34:042016年3月のツイートを追加します
@toronei 近世史の世界では揺り戻しというか正常化というか、田沼意次は幕府至上主義で幕府の立場意外何にも考えてなかった、とか、松平定信は幕政を民生中心に大転換した人物とか、そういうことは昨今言われるようになりましたね
2016-03-21 22:06:30