福永光司著作Bot

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fukuebisu @fukuebisu_tao

・この頃瑯邪の道術者宮崇、その師の干吉が瑯邪の曲陽泉の水辺で得たという神書(『太平清領書』170巻を朝廷に献上(『後漢書』嚢楷伝)。

2018-03-05 12:36:03
fukuebisu @fukuebisu_tao

(18)AD135頃‥張衡『楚辞』離騒を受けて『思玄賦』を作り、「天皇」を最高神とする神仙世界の構図を描く(『後漢書』張衡伝)。

2018-03-05 12:36:02
fukuebisu @fukuebisu_tao

(17)AD90頃‥王充、当時の図讖・神仙讖緯(しんい)の思想信仰を厳しく批判。ただし星信仰は批判せず(『論衡』道虚論など)。

2018-03-05 12:36:02
fukuebisu @fukuebisu_tao

(16)AD56(中元元年)‥光武帝、讖文『河図会昌符』に感じ、泰山に登って封禅の祭祀を行い、天下に図讖を宣布す(『後漢書』光武帝紀)。

2018-03-05 12:36:01
fukuebisu @fukuebisu_tao

***(西暦紀元前後)*** (15)AD17(天鳳4年)‥皇帝王莽、南郊に往き、北斗星に象った「威斗」を鋳造。また『紫閣図』により祥瑞を得て登仙することを願う(『漢書』王莽伝)。

2018-03-05 12:36:01
fukuebisu @fukuebisu_tao

・この頃、斉人甘忠可、天官歴・包元太平経12巻を詐造(さぞう)して漢家の革命を予言し、天帝の、真人赤精子を使者としての下教なりと称す(『漢書』李尋伝)

2018-03-05 12:14:04
fukuebisu @fukuebisu_tao

(14)BC13(永始4年)‥漢の成帝、甘泉の泰畤で郊祀(太一神の祭祀)を行う。 揚雄、その祭祀に参列し、実景を描写して『甘泉腑』并序を作る(『文選』卷7)。また『易経』と『老子』の哲学を折衷する『大玄経』を著作(『漢書』揚雄伝)。

2018-03-05 12:14:04
fukuebisu @fukuebisu_tao

(13)BC50頃‥漢の宣帝、武帝の神仙方術の事を復興。この時、劉向は淮南王の『枕中鴻宝苑秘書』による錬金術の実験に失敗。死刑の宣告を受けたが、兄その罪を贖なって許される(『漢書』劉向伝)。

2018-03-05 12:14:03
fukuebisu @fukuebisu_tao

(12)BC93(大始4年)‥漢の武帝、神人(蓬莱の仙人)を瑯邪の交門宮に祀る(同右)。

2018-03-05 12:14:03
fukuebisu @fukuebisu_tao

(11)BC110(元封元年)‥漢の武帝泰山の登って封禅の祭祀を行う(『漢書』武帝本紀)。

2018-03-05 12:14:03
fukuebisu @fukuebisu_tao

(10)BC139(建元2年)‥淮南王劉安、入朝して『淮南子』を献上(『史記』淮南王伝)。

2018-03-05 12:14:03
fukuebisu @fukuebisu_tao

(9)BC140(建元元年)‥漢の武帝、「即位して尤(はなは)だ鬼神の祭祀を敬う」(『史記』封禅書)。 ・この頃、李少君、武帝に祠竃や丹沙を黄金に化す方術などを説く(同右)。 ・また亳(はく・老子の郷里)のひと謬忌(ぼくき)、「太一を祀る方」を武帝に献上(同右)。

2018-03-05 12:14:02
fukuebisu @fukuebisu_tao

(8)BC211(始皇帝36年)‥盧生、始皇帝に『荘子』の「真人」を不死の仙人として説く(同右)。

2018-03-05 12:14:02
fukuebisu @fukuebisu_tao

(7)BC215(始皇32年)‥始皇帝、碣石(河北省)に往き、燕の人盧生に仙人羨門らを求めさせる。また韓終らに仙人不死の薬を求めさせる(同右)。

2018-03-05 12:14:01
fukuebisu @fukuebisu_tao

秦漢時代…(弥生前期) (6)BC219(始皇28年)‥秦始皇帝、泰山に登って封禅(上帝の祭祀)を行う(『史記』始皇本紀)。 また斉(山東省)の人、徐市(じょふつ)らを遣わして海中の三神山(蓬莱、瀛州、方丈)に仙人を求めさせ、古来の宗教的聖地「瑯邪台」に登って碑を立てる(同右)。

2018-03-05 12:14:01
fukuebisu @fukuebisu_tao

西周時代…(弥生時代前期) (5)BC230頃‥韓非子、『老子」の「道」に基づく「功過」の法哲学を大成(韓非子』主道篇など)=道教の功過格思想の源流。

2018-03-05 12:07:04
fukuebisu @fukuebisu_tao

(4)BC350頃‥荘子、”道と遊ぶ”「真」の哲学を説く。「道は帝(上帝)を神(しん)にし鬼を神にす」(『荘子』大宗師篇)。

2018-03-05 12:05:59
fukuebisu @fukuebisu_tao

(3)BC380頃‥墨子、当時の儒者の説く「道教」を「天下の人を賊るもの」として攻撃(『墨子』非儒篇)=「道教」の語の初出。 またその教団は『詩経』『書経』の上帝信仰に基づき、「先王の道教」を解く(同、耕柱篇) (*いわゆる今にいう儒教を「道教」という言葉で言い表している)

2018-03-05 12:05:59
fukuebisu @fukuebisu_tao

(2)BC500年頃‥孔子と天(上帝)の信仰。「罪を天に獲れば免るる所なし」、「丘(われ)の(上下の神祇に)祷るや久し」など(道教における宗教的な罪の思想の原型として)(『論語』八佾(いつ)、述而篇)。

2018-03-05 12:05:58
fukuebisu @fukuebisu_tao

西周時代…(縄文晩期) (1)BC1200年頃‥『書経』『詩経』に見える裁きの神としての上帝の信仰(道教の「元始天尊」の原型として)。

2018-03-05 12:05:58
fukuebisu @fukuebisu_tao

『道教と日本思想』福永光司著作より p237~265 「‥「道教思想史研究覚書(メモ)」‥自ら学習する人のために‥」にある‥ p243[略年表](道教思想史研究覚書)の抜書き連続ツイート開始…

2018-03-05 11:56:28
〇net @netslavezline

→(明治政府は「…院」という古来の呼称を使った) このような「…院」と院号を送られた歴代天皇について、「院」を省いて「…天皇」と称するようになったのは、大正14(1925)年に時の政府が決めたからである。 「後醍醐天皇」などと呼び始めたのは、たかだか80年ほど前からに過ぎない。

2016-05-26 18:09:15
〇net @netslavezline

→p141  ちなみに、我々は例えば「後醍醐天皇」などと呼ぶが、江戸時代の人はそう呼ばずに「後醍醐院」と呼んでいた。院号なのである。院号であることが気になったのか、明治時代に入ると、政府は「…院天皇」と称したりしたが、なお「…院」を引きずっていた。→

2016-05-26 18:06:23
〇net @netslavezline

→(光格天皇は「諡号+天皇」をおくられたが、この形式の称号が送られたのは、第58代の光孝天皇<天慶8・884年~仁和3・887年>が最後。954年ぶりに復活) まさに900年以上もの長い間眠っていた古代天皇制の「怪物」が目を覚ましたようなもので、人々がびっくりしたのも当たり前だ→

2016-05-26 18:05:26
〇net @netslavezline

→「光格天皇は「諡号+天皇」で、最上位の称号と言えるが、この形式の称号が送られたのは、「君が為春野にいでて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ」という和歌が百人一首に収められている第58代の光孝天皇(在位が天慶8<884>年~仁和3<887>年)が最後である。実に954年ぶりだった。→

2016-05-26 18:01:34
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