福永光司著作Bot

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fukuebisu @fukuebisu_tao

以上連ツイ‥福永光司先生の‥ [略年表]「(道教思想史研究覚書)のための」は‥ <「道教の4重構造」>でいうと‥ ・(1)鬼道の教‥B.C14以後 ・(2)神道の教‥A.D2C以後 ・(3)真道の教‥A.D3C以後 にあたるかと思われる。 ・(4)聖道の教‥A.D6C以後 は、またいつかツイートしたい。

2018-03-05 12:58:29
fukuebisu @fukuebisu_tao

(*「三玄の学」‥‥『周易』・『老子』・『荘子』の三玄の学)

2018-03-05 12:53:27
fukuebisu @fukuebisu_tao

(36)-2 →この年『駁夷夏論』の著者である袁粲‥が死去。『夷夏論』は、「道は則ち仏なり、仏は則ち道なり」と言いつつも、結論としては仏教を「無生の教え、破悪の術」、道教を「無死の教え、興善の術」として道教を優位に置く(『南斉書』顧歓伝)。

2018-03-05 12:52:13
fukuebisu @fukuebisu_tao

(36)AD477(昇明元年)‥南斉の道士・顧歓の『夷夏論』が、この頃書かれる。→

2018-03-05 12:52:13
fukuebisu @fukuebisu_tao

宋斉時代‥ (35)AD437(元嘉14年)‥廬山の道士・陸修静の『霊宝経目』序が書かれる(『雲笈七籤』巻4に収載)。『霊宝経目』は敦煌ペリオ文書に引用が見られる。

2018-03-05 12:52:13
fukuebisu @fukuebisu_tao

(34)AD416(義熙12年)‥『明報応論』『三報論』『沙門不敬王者論』などの著作で知られる廬山の慧遠が死去。彼の仏教学も「三玄の学」がその基底をなす。

2018-03-05 12:49:43
fukuebisu @fukuebisu_tao

(33)-2 → しかし理論面よりも実践面を重視、その教団は彼の死とともに崩壊した。(『魏書』釈老子)。

2018-03-05 12:49:42
fukuebisu @fukuebisu_tao

北魏時代‥ (33)AD415(神瑞2年)‥北魏の道士・寇謙之が嵩山(すうざん)で太上老君の降臨にあい、『雲中音誦科新科之誡』20巻を授けられ、「道教の清整」を命ぜられた。彼は北魏の太武帝に道壇で符簶を受けさせることにも成功し道教の国教化にも成功。→

2018-03-05 12:49:42
fukuebisu @fukuebisu_tao

東晋時代‥(古墳時代中期) (32)AD414(義熙10年)‥この頃、鳩摩羅什(くまらじゅう)の高弟で『筆論』『註維摩詰論』などの著者僧肇(そうじょう)が歿す。彼は当時における『荘子』学の第一人者。

2018-03-05 12:45:38
fukuebisu @fukuebisu_tao

(31)AD385(太元10年)‥西域沙門の仏図澄(ぶっとちょう)の弟子で廬山の慧遠の師匠、また鳩摩羅什の招聘者として知られる釈道安が死去。彼の仏教学も「三玄の学」がその根底基盤をなす。

2018-03-05 12:45:37
fukuebisu @fukuebisu_tao

(30)AD366(太和元年)‥『大小品対比要鈔序』『即色遊玄論』などの著作で知られる支遁(道林)死す。彼は『老』『荘』『易』のいわゆる三玄の学を基底において中国仏教学を確立した代表的義解僧。

2018-03-05 12:45:37
fukuebisu @fukuebisu_tao

(29)-2 →現行の7編20巻の『真誥』がそれである。=茅山道教の中心経典。 ・この頃、道教(天師道)の熱烈な信者であった王羲之死す。道教の経典『黄帝経』は彼の愛読書であった(『晋書』王羲之伝)。

2018-03-05 12:45:37
fukuebisu @fukuebisu_tao

東晋時代(29)AD365(興寧3年)この年の前後に茅山道教のいわゆる「衆真降授」が行われ、楊羲(386没)許謐、許翽(きょけい)らによって筆録されたものが「真誥」と呼ばれる。この「真誥」はその後、南斉の顧歓によって「真迹」として整理編纂され、さらに梁の陶弘景によって整理編集し直された→

2018-03-05 12:45:36
fukuebisu @fukuebisu_tao

西晋→東晋時代‥(古墳時代前期) (28)AD317頃‥(古墳時代前期)‥葛洪の『抱朴子』成る。その内編は金丹を最高の仙薬として強調し、全体として『周易参同契』の解説書の観を呈する。

2018-03-05 12:37:48
fukuebisu @fukuebisu_tao

(26)AD262(景元3年)‥『養生論』『答え難養生論』などによって「神仙は学を持って嫗べきや否や」を論じた嵆康(けいこう)、40歳で刑死す。

2018-03-05 12:36:06
fukuebisu @fukuebisu_tao

(25)AD252(嘉平4年)‥*康僧鎧らによる『無量寿経』の漢訳なる。「悪を為せば天神剋(よ)く識(しろ)して其の名籍を別つ」など道教的色調を濃厚に持つ漢訳

2018-03-05 12:36:06
fukuebisu @fukuebisu_tao

(24)AD232(嘉禾2年)‥この年に死んだ虞翻の『易注』に道教の錬金術理論書『周易参同契』を引く。

2018-03-05 12:36:06
fukuebisu @fukuebisu_tao

・なお敦煌出土の『老子想爾注』は、この張魯教団の幹部教育用の講義録のごときものか。

2018-03-05 12:36:06
fukuebisu @fukuebisu_tao

(23)AD215(建安20年)‥いわゆる「三張道教」=五斗米道(天師道)教団の系師として漢中(陜西省)一帯に強大な勢力を保持していた張魯が曹操の軍門に降伏。しかし宗教教団としては存続を許され、魯の子の張盛の時、江西の竜虎山に移る。

2018-03-05 12:36:05
fukuebisu @fukuebisu_tao

・この頃、儒学者鄭玄(じょうげん)は、『周礼』の「昊天上帝」を緯書の「天皇大帝」と同一の神格として解釈(『周礼』大宗伯の鄭注)。 ・また、泰山に人の寿命台帳が保管されているという信仰が広くおこなわる(『風俗通』正失篇など)。

2018-03-05 12:36:05
fukuebisu @fukuebisu_tao

(22)AD184(光和7年)‥鉅鹿(河北省)の張角が前記『太平制領書』(太平経)に基づく太平道の教えを興し、数十万の衆徒を36の軍団に組織し、大規模な宗教一揆を起こす。いわゆる「黄巾の乱」である(『後漢書』皇甫嵩伝など)。

2018-03-05 12:36:05
fukuebisu @fukuebisu_tao

(21)AD166(延熹9年)‥桓帝、宮中の濯竜宮で老子を祀る。華蓋の坐を設け、郊天の楽を用いて老子を天皇大帝もしくは昊天上帝(こうてんじょうてい)になぞらえる(『後漢書』桓帝紀、祭祀篇)。

2018-03-05 12:36:04
fukuebisu @fukuebisu_tao

(20)AD165(延熹8年)‥桓帝、使者を陳国苦県(河南省9に派遣して老子を祀らせる(『後漢書』桓帝紀、祭祀篇)。辺韶、陳国の現地で「老子銘」を書くこれらによって老子の神格化…「太上老君」の原型…が確認される(『隷釈』巻3)。

2018-03-05 12:36:04
fukuebisu @fukuebisu_tao

・その時期を『漢天師世家』は、順帝の漢安元年とする。張陵の教法は、子の張衡(嗣師)から孫の張魯(系師)に受け継がれて、その教団は大きな宗教的・政治的勢力となった(『魏志』張魯伝など)。

2018-03-05 12:36:03
fukuebisu @fukuebisu_tao

(19)AD142(漢安元年)漢の高宗劉邦と同郷の*沛国豊の人である張陵は、蜀(四川省)の鵠鳴山で道術を修行し、五斗米道の宗教の開祖となる(『魏志』張魯伝)。

2018-03-05 12:36:03
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