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私家版ハイデガースタディー02 神無き客観、反地動説的地平の共有

地動説ではカントのように(デカルトの)神を要請してしまう(つまり諸科学を啓蒙できるようになった)。ハイデガーにだけ出来た新転回とは、(ナチズム結審で著名な)中田光雄の原デリダ論では「反地動説的超越論」なのだが、問題はそれをどう協同主観として共有するのか、ということである。フッサールの『幾何学の起源』では依然、時間が空間化されてしまい歴史化せず不十分で、系譜学的脱構築に対する形式的脱構築としての、東浩紀の「郵便空間」だけが「可能性の中心」になるのだろうか。デリダ自身は「宗教的転回」もして単なる無神論に陥ってしまうが、ソーカル事件ではないが、日本では東以降、哲学の自家中毒のような、ある種の停滞(象徴界の固定)が必然化した。このように全てはハイデガーの脱固有名化、ハイデガーの反地動説的意味論の共有にかかっているようなのだ。神無き客観はいかに可能なのか? http://togetter.com/li/769376 の続編の私的ツイートの集積所です。
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

ハイデガーがここで、無を対象化しないというのは、存在者の全体を企投するには無が対象化される。しかし、被投は偶然的であり、そのことが有限性である。よって対象化されるのは無ではない、ということのようなんですが、逆に、無を場所とすることと、非常に似ている。@ecila808

2015-02-09 12:18:03
哲学少女 @ecila808

@sunamajiri 確かにそうですね。対象化されざるもの(まだできないだけとかでなく)として、存在者の連関を開くものとして無を捉えて行くという意味では、接近を示している感じがします。そこで西田は弁証法論理ということを頻りに言い出すわけですが、ハイデガー的にはどうなんでしょう

2015-02-09 12:18:56
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

そこからいわゆるメタ存在論への転回が、内的な理路として必然化された、と丸山氏は論証しているように見えます。その後の現代思想では、大地論への反地動説的新転回などと中田先生もおっしゃる。しかしいわば場所のことなんでしょう。場所論以降の西田はおもしろそうですね。@ecila808

2015-02-09 12:26:25
哲学少女 @ecila808

@sunamajiri そのへん面白そうですね。折に触れてハイデガーに絡んでますが、そこまでなかなか入って行きにくいですね。徐々に入って行きたいですが。

2015-02-09 12:30:54
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

ハイデガーの転回が、寄与や黒ノートという後発文献によってではなく、また従来の解釈者の恣意でもなく、厳密に内的な理路として解釈され始めた時代です(そんなことまだ分からなかったのかと驚くほど)。西田に関しても戦後の問題があって十分に汲みつくされたいない気もしますね。@ecila808

2015-02-09 12:36:21
哲学少女 @ecila808

@sunamajiri 学会ができたのも比較的最近ですしね。条件反射の批判で悪者にされるか、やたら神秘化されるかのどちらかが多かった。禅というイメージが悪い影響を及ぼしている。西田が禅とか言われるのを嫌ったのもよくわかります。今はもっとフラットに研究されるようになってきていますね

2015-02-09 12:42:24
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

それほどなんですか。理路不明で禅に結びつけるんですかね。意識を対象化するのではなく、意識が対象化するのだ、というのを経験論の人たちは、禅の復古のようにとらえるんですかね。ハイデガーも誤解されまくってるんでしょう。開覆しすぎてしまい逆に掩蔽のように映る。@ecila808

2015-02-09 12:49:08
哲学少女 @ecila808

@sunamajiri まあさすがに京都学派の流れを汲んでいる人たちは違いますが、より広くは。まあ西田が論理と言っているものを捉えるのが難しい部分もありますし、実際禅も出てくるので、単なる間違いではないわけですけど。

2015-02-09 12:55:14
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

ハイデガーが『カント書』末尾で、ヘーゲルの論理学のダメ出しを繰り返しますが、フッサールやハイデガー、そして西田の言う「論理」は、一般の人のイメージするそれとは、かけ離れてるんでしょうね。実に当たり前のことなのに。@ecila808 pic.twitter.com/vJzWbuad6k

2015-02-09 13:07:36
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哲学少女 @ecila808

@sunamajiri そこは難しいですね。所謂論理でない論理が重要なのは明白だが、それをどう考えるかは西田の中でも揺れている。現象学に関しては今回のお話を手引きにもうちょい勉強してみます。ちょっと出かけるので今日はこのへんで。いろいろと勉強になりました、ありがとうございました

2015-02-09 13:34:21
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

なるほど(^-^)/ @ecila808 所謂論理でない論理が重要なのは明白だが、それをどう考えるかは西田の中でも揺れている。現象学に関しては今回のお話を手引きにもうちょい勉強してみます。

2015-02-09 13:59:24
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

私も勉強中なだけですよー(^-^)/ @ecila808 ちょっと出かけるので今日はこのへんで。いろいろと勉強になりました、ありがとうございました

2015-02-09 13:59:40
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

昨日、対象化できない無という一点で、ハイデガーにしろ西田にしろ、可能性が汲みつくされていない、そういう惑乱があるという話になりましたが、永井均が西田幾多郎を論じていて、現代では哲学は紹介の役割しかないといいますね。@ecila808 pic.twitter.com/5czy2Llj6D

2015-02-10 10:48:15
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

もちろん、この本 amzn.to/1DVzrOI は西田幾多郎ではなく、永井均の本だけれど、永井は西田前期をある仕方で紹介すると、西田の独我論は、このように汲めると紹介していますね。@ecila808 pic.twitter.com/RHDR5W0022

2015-02-10 10:53:07
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

永井は、日本語表現と英語表現という最初の章で、川端の雪国の冒頭の無人称は、世界内存在を汲む英語では訳出できないが、この無人称が西田前期の独我論で、それが後期に転回するという、紹介の仕方になっているようです。いわば世界内存在を表現できない日本語の問題です。@ecila808

2015-02-10 11:01:01
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

いま教えていただきたいとすると2つ。一つは昨日仰っていた独我論 twitter.com/ecila808/statu… は、この汲み方でよいものか。またこの永井均の紹介の仕方の妥当性を、どう捉えているか、ということです。@ecila808

2015-02-10 11:09:29
哲学少女 @ecila808

@sunamajiri 私はまだ素人みたいなものですから、あまり信用できたものではないので、全集を読んで頂けると嬉しいです。というか人から聞いてもピンときにくい。公刊著作が全集で11巻ですし、講義がたくさんあるわけでもないですし。独我論云々は全集六巻です。旧全集は一万五千程度です

2015-02-09 11:27:32
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

永井の西田の独我論の紹介の仕方は、英語に比べて、無人称の日本語では西田の「数理」のように、世界内存在が表現できない、というハイデガーから西田を汲む仕方です。それによって永井のいう西田の転回が、無を対象化しないことだ、と明記されているように思えます。@ecila808

2015-02-10 11:24:10
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

私もこの永井の西田本は、数年前に一読しただけで、再読しようと思っていますが、薄いですよね。読むのに1時間かからない。しかしこの薄さがハイデガーから、西田前期の独我論を汲み、絶対無を記述することからくる薄っぺらさ、にも見えている。@ecila808

2015-02-10 11:27:04
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

重要なのはここですよね。西田の『版を新たにするに当たって』。デカルトのコギトのような神観念要請では満足できない(説得されない)のだから、一端は観念論になる。@ecila808 pic.twitter.com/9SNHePOs3W

2015-02-10 11:38:37
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

次のページはこうです。意識を対象化しないこと、それが無を対象化しないことに近づいていくのだけれど、永井はどちらが、言語としてありのままの表現かという、英語表現と日本語の無人称的特殊性で、西田の純粋性を汲んでいきます。@ecila808 pic.twitter.com/PtKidiN28R

2015-02-10 11:46:54
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

いまの英語と日本語のどちらが「ありのまま」か、というのは、世界内存在というありのままがどちらにあるかという永井の対比だけど、私の説明は永井よりわかりやすいわけでないので、その部分も貼っておきます(汗)。@ecila808 pic.twitter.com/uRwW8gsNoA

2015-02-10 11:54:32
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哲学少女 @ecila808

@sunamajiri えっと、永井の本は昔読んで今さらっと見ましたが、とりあえず、私が独我論云々を言っていたのは第三章 私と汝に当たるところのことです。他者は神と同じく無(私)のさらなる無となる云々のところです(93頁)。もう一回読み返そうかと思いますが、今印象を言えば、善の研

2015-02-10 14:45:28
哲学少女 @ecila808

@sunamajiri 究は具体的普遍をベースに考えていて、この今の極めて特殊な薔薇へのこの感情みたいなものも、世界(純粋経験)の体系の中で定まっているので公的で、その薔薇ー感情(主客)の交差点、限定地点が純粋経験の刹那としての意識中心としての私になっている。だから個別的で私だけ

2015-02-10 14:48:58
哲学少女 @ecila808

@sunamajiri と英語的には記述されるものが、公で一般的だと考えるんでしょう。 これ以降は読み返してから返信します。

2015-02-10 14:51:47
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

私もちょっと読み返してみます。ただしちょっと今日は出かけるので後日になるかもしれません。「私」や「意識」を西田が「場所」というのを、永井は世界内存在の「世界」と言い換え、さらにウィトゲンシュタインからも西田の「場所が自覚する」を説明しようとしてますね。また後日。@ecila808

2015-02-10 14:58:50
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