『八戸浦”くじら事件”と漁民』に見る、漁民から見た捕鯨
- kamekujiraneko
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しかし鯨自体をエビスとみなす風潮は無かったそうで、所変わればでは有りませんが「漁民が何を漁獲対象とするかによって、エビスと擬せられるものもおのずと変わってくるのである。」(くじら取りの系譜 中園成生 159p) という事でしょうね。
2015-06-21 20:50:26しかし、wikiの「東洋捕鯨鮫事業所焼討事件」の記事、「騒動の原因」の項から環境汚染や当該地方の「エビス信仰」やらがパージされていて凄いなと思う。 まぁ、別に良いんですけどね… ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1…
2015-06-21 21:15:55食害論に関しては山下渉登氏の「鯨が昔からオキアミ以外に魚やらイカ、タコ食ってるの江戸時代から知られている事なんだから、今更言挙げして『害獣』扱いして何がしたいんだよ…」という感覚が科学云々の前にマトモすぎて本当にビックリする。
2015-06-21 23:41:34※「クジラ食害論」関連参考資料:
青い裸の鳥の王様
http://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-20.html
…それはありえない
http://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-18.html
サイエンス誌2月13日号に「クジラ食害論」を否定する論文が出た
http://blogs.yahoo.co.jp/marburg_aromatics_chem/60296955.html
中日新聞は「クジラ食害論」を信じているのだろうか
http://blogs.yahoo.co.jp/marburg_aromatics_chem/61376980.html
「鯨がオキアミ以外に魚類やナマコ、イカ、タコなどを捕食していることは、江戸時代の鯨組から周知のことである。 こんなことをいまさら言挙げし、鯨を『害獣』扱いにしてどうしようというのだろうか。」
2015-06-21 23:57:28「漁獲量が減ってきたのは、捕鯨同様に過去の濫獲のせいでもある。 それをぬきにして、漁獲の邪魔になるから鯨を間引いてしよしとする考えは、 いったいどこからでできたのだろうか。 それは日本の漁業文化にみられる鯨=『エビス神』観と、どう折り合いがつくのだろうか。」
2015-06-21 23:58:19「鯨=『エビス神』観と共通の基礎をもっていた日本の捕鯨文化の、いったい何を推奨し、継承したいと言うのだろうか。 日本の捕鯨文化に、明治以降、何か創造的なものが一つでも付け加えられただろうか。それはすでに、地に堕ちていやしないだろうか。」
2015-06-21 23:59:06「日本の捕鯨文化を伝承していると一部の学者達が喧伝していた小型沿岸捕鯨が[ミルトン・M・R・フリーマン編著『くじらの人類文化』参照]、 一九六六~七二年にかけて、捕鯨が禁じられているはずのマッコウ鯨を大量に捕獲し、大型沿岸捕鯨の会社に丸売りしていたという[近藤、四二〇~二頁]」
2015-06-21 23:59:31「鯨食文化にしてもそうだ。捕鯨場と食卓が遠くなり、しかも鯨肉の多くが食品産業の原料とされたために、江戸後期の『鯨肉調味方』では七〇種を超えた鯨料理も、そのうちのわずかが残っているにすぎない。」
2015-06-22 00:00:19「鯨を枯渇させただけでなく、われわれは現代捕鯨に移行する過程で、過去の捕鯨文化も一緒に枯渇させてきたことを記憶に留めておくべきである。」 以上、「捕鯨Ⅱ 山下渉登 284p」より。 長いが全部引用した。
2015-06-22 00:01:09給食ひろばさんの現地レポート
今回の八戸行きにはいくつか目的があったのですが、そのひとつが、明治時代終わりに開設された捕鯨会社のことと、その事業所を漁師たちが襲撃した東洋捕鯨鮫事業所焼討事件の当時の背景を調べることでした。 pic.twitter.com/cfDDu1yJAP
2017-03-20 10:36:25八戸では古くからの漁師町として湊・白銀・鮫がありました。現在それぞれJR八戸線の駅があります。 明治後期、北東側にある旧三戸郡鮫村の鮫浦に捕鯨会社の誘致話が持ち上がりました。 ノルウェー式捕鯨が明治30年代頃に日本に導入され、各地に捕鯨基地が開設されていたのです。 pic.twitter.com/qWroHOBJsR
2017-03-20 11:08:37捕鯨基地の誘致側のひとりに八戸の漁業を近代化させた功労者として鮫に銅像も建つ長谷川藤次郎という三重県出身の実業家がいました。 漁網の改良により近代漁業の基礎を築いた方ですが、捕鯨会社焼討事件では襲われた方の被害者となります。 pic.twitter.com/kc9isGkFQF
2017-03-20 11:17:18それまで三つ漁師町の獲物は主に鰯で、漁も地引網によるものでした。当時、鰯は食べものだけではなく当時肥料化して「金肥」として広く流通し、長谷川藤二郎は鮫で肥料・雑貨商を営んでいましたが、やがて国内で初めて綿糸を使用した揚繰網を考案するなどして漁獲量の拡大、安定にも貢献しました。 pic.twitter.com/yDwh5thoO4
2017-03-20 11:31:57地引網はイワシが沿岸に寄ってこないと獲れません。手繰網は機船底引網の前身で、小型船による底引網のことです。地引網漁業の方式を船を使うことによって沿岸を離れて操業できるようにしたものです。効率が上がります。こうして八戸の漁師町は発展していきました。 pic.twitter.com/QTiO2Cc7rM
2017-03-20 11:38:26長谷川藤二郎の貢献があった一方で、八戸の漁師たちはある鯨の伝説を信じていました。一帯の恵比寿浜に「オナイジ」という鯨の主が棲んでおり鰯が不漁のときオナイジが沖まで回遊し沿岸にイワシを追い込み周辺の漁師たちは大漁の恩恵を受けたというものです。鯨は漁師にとって恵比寿様そのものでした。 pic.twitter.com/DrhLuyDxxE
2017-03-20 11:52:46それまで八戸での捕鯨は確立されていませんでしたが、それでいて江戸時代から寄鯨(死んだり弱ったりして海岸に漂着したクジラ)を得て利用していました。白銀には鯨の骨を建設資材として使った鯨橋も作られました。 しかし銛を打ち込むノルウェー式捕鯨の基地の誘致は漁師たちを不安にしました。 pic.twitter.com/vsPhWJh7N1
2017-03-20 12:04:08オナイジ伝説や、捕鯨の解体場から出る鯨の血や脂によってイワシが獲れなくなるなる、という意見が出て捕鯨会社誘致に対する反対運動が起きました。 鮫村の漁師たちとは漁業補償の交渉はまとまったものの、湊と白銀とはまとまりませんでした。しかし、誘致派が半ば強引に開設、操業が始まります。 pic.twitter.com/g0NcMwv0Bl
2017-03-20 12:16:46果たして捕鯨事業が始まると鯨は大漁でした。5月から8月の漁期を設定しましたが180頭もの鯨が獲れました。それだけ獲れると解体の際に出る残渣の処分がおそろかになり、漁師たちの不安通り海は汚れてしまいました。捕鯨会社と誘致派は毎夜旅館で芸者を揚げて宴会を開いていました。
2017-03-20 12:32:36さらに捕鯨会社は設定されていた8月迄の漁期を過ぎても捕鯨を続けたため湊と白銀の漁師たちの怒りは頂点に達しました。また、オナイジ伝説やイワシの不漁と捕鯨事業の因果関係が立証されなかったので、捕鯨会社が漁期を守らなかったことが唯一焼討の大義となり、直接の原因とされました。
2017-03-20 12:42:41