@jai_an 氏による【学び合いの諸課題】No.53〜82ツイート(2011.02.18 追加)

【「学び合い」教育の諸問題(81-82)】大学へ進んだ者なら勉強しなくてもわかるのは、どんな三流大学でも、高校までの教員とは一線を画した専門性の高い教員が存在していることである。〈仕事〉を超えて勉強が好きな人間が世の中にはいることくらいはバカ学生でも気付いている。 そういった存在(中等教育を脱した“終わり”の先生)は、簡単なかけ算や不定冠詞、そして助詞にも深い意味があることを教えてくれる。そのことの薫陶を受けた者だけが教員(teacher)になれる。それが一条校教員が大学卒である理由。
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芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(53)】まだまだ続く #manabiai

2011-02-17 05:00:27
芦田宏直 @jai_an

RT @toshiro: @jai_an 氏による【学び合いの諸課題】連続ツイートに、No.39〜52を追加しました。まだまだ続く。 http://togetter.com/li/101583

2011-02-17 12:28:50
芦田宏直 @jai_an

これ http://ow.ly/3YngX の続き。【「学び合い」教育の諸問題(54)】さて、できる子供は、通常の一対n個の授業のように先生に直接教わる機会を経ないでも、教室内で主には自学習を進める。業者の教材プリントかも知れない、教員のオリジナルプリントかも知れない。...

2011-02-18 01:59:22
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(55)】「問題を解く」という行為は、ある種の機能主義的で記号論的な操作に留まることが多い。解けていても、「わかっていない」場合も多々ある。 #manabiai

2011-02-18 02:01:11
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(56)】二桁のかけ算が「できる」という指導要領的なテーマがあって二桁のかけ算ができたとしても「かけ算とは何か」がわかったとは言えない。生徒同士が学び会えるのはその手法であって、かけ算の意味ではない。 #manabiai 

2011-02-18 02:02:25
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(57)】それは鎌倉幕府の述語(たとえば1192年にそれが成立した、という一述語)をいくら集めても鎌倉幕府が「何であるか」にはたどり着きがたいというのと似ている。 #manabiai

2011-02-18 02:03:21
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(58)】こういった「何であるか」については、先生しか教えることのできない専門性に属している。〈先生〉は生徒のように問題を「解く」人ではなくて、その意味を解釈することができる人なのである。 #manabiai

2011-02-18 02:04:05
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(59)】かけ算も割り算も、その意味とは何かなど、練習問題をいくつ解いて「優等生」になったとしてもなかなかつかめない。その意味で生徒は「できる」生徒であっても記号論的な操作を繰り返しているに過ぎない。 #manabiai

2011-02-18 02:05:05
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(60)】私の経験でも(大げさに言えば)英語の不定冠詞の意味を知ったのは大学に入ってからだった。公立中学校の先生は、不定冠詞を複数のsと対立させてしか教えてくれなかった。しかしそうであっても、練習問題は「解けた」のである。 #manabiai 

2011-02-18 02:06:09
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(61)】もちろんかけ算も割り算も積分や微分の理解が前提になっている。それを「知っている」のは先生だけだ。積み上げ型の自学習ではそこを学べない。練習問題ができて、「平均点」が上がるだけなのである。 #manabiai

2011-02-18 02:12:11
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(62)】小学校教員が大学教員ほどに専門的なことを理解する必要はないまでも、いま小学生にやらせている勉強が大学までの高等教育の中で、あるいはサイエンス全体の中でどんな位置付けを有しているのかを教員は理解している。 #manabiai 

2011-02-18 02:13:33
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(63)】この「上からの」理解が「上からの」教育(=学校教育)の「先生」指導の要点なのである。〈勉強〉とは記号論的な操作に習熟することではない。「問題を解ける」だけの優等生を作ってもしようがない。 #manabiai 

2011-02-18 02:14:29
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(64)】「学び合い」は生徒同士の記号論的な手法(回答手法)の交流に「活発さ」を認めているが、そんなものは本来の学習ではない。 #manabiai

2011-02-18 02:15:15
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(65)】この問題は「できる」生徒をどう扱うべきか、の問題に収斂する。 #manabiai

2011-02-18 02:16:57
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(66)】質の悪い「学び合い」は別にして、高度な「学び合い」授業では「できる」生徒は自学教材を基にどんどん先に進んでいく(まるで公文式のように)。 #manabiai

2011-02-18 03:06:48
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(67)】高度な「学び合い」では同じクラス内でも進度はまちまちになる。できる生徒のできない生徒への補助指導はその余暇のようなものだ。できる生徒のその“余裕”が補助指導の質を高める。そうやって、クラス全体の「平均点」は上がっていく。 #manabiai

2011-02-18 03:10:12
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(68)】1対n個の集団授業では、「できない」生徒に阻害されて進めない授業進行が、学び合い授業では、できる生徒であっても、できない生徒であっても個人の“理解”の度合いに応じて進行するという利点を有している。 #manabiai 

2011-02-18 03:10:45
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(69)】この様(さま)は公文式に似ている。公文式は教材開発が洗練されている分、「学び合い」の必要なく、「解ける」問題を解き進むだけで螺旋状に高度自学習を進めていくことができる。「落ちこぼれ」は存在せず、進度の差だけが存在している。 #manabiai 

2011-02-18 03:11:40
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(70)】「学び合い」授業は、非力な教材を使う分、いわば「コミュニケーション能力」育成付き公文式の様相を呈している。公文式は「人格の完成」(西川純)に向かわない分、学び合いは人間的な交流があるというもの。 #manabiai 

2011-02-18 03:16:59
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(71)】しかし両者(公文式と学び合い)に共通していることは、二つある。一つは、街のおばちゃんでも生徒の相手をできる程度に、教員の負担が少ない。二つ目には、操作主義的に問題を解いているだけということ。 #manabiai 

2011-02-18 03:34:38
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(72)】公文式や学び合いの、こういった教員を私は教員(teacher)とは呼ばない。操作主義的な教育者は、通常、instructor、trainer と呼ぶことにしている。 #manabiai

2011-02-18 03:40:51
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(73)】instructor、trainerは、〈(知的な)教材開発〉ができない、〈意味〉を教えないという点で、教員(teacher)とは一線を画している。学び合い教員と同様、実習教員もその意味では teacherではない。 #manabiai

2011-02-18 03:43:34
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(74)】専門学校の実習授業などは学び合い教育とほとんど同じ相貌を呈しているが、間違いが起こったのは、この実習授業担当者をこの学校群が〈教員〉と呼んだところから始まった。この教員達は、講義授業で生徒や学生を制御できない。#manabiai

2011-02-18 03:48:38
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(75)】専門学校の講義授業では大半の生徒や学生が寝ている。起きているのは実習だけ。講義で寝ている学生を教える(起こす)ことができるのは〈意味〉を語れる専門性の高い教員でしかない。#manabiai

2011-02-18 03:59:43
芦田宏直 @jai_an

【「学び合い」教育の諸問題(76)】その意味で専門学校には、実習授業しかできない、つまり〈操作〉を教えることしかできないinstructor、trainer教員しかいない。つまり専門学校の教員は教員(teacher)ではない。 #manabiai 

2011-02-18 04:02:11