伊達政宗「石田方が負けたってよぉ!」 最上義光「上杉勢も逃げていくぜ!」 政宗「でもこれで終わったと思っちゃいけねえなあ!」 義光「むしろここからが上杉領切り取りパーリータイムよ!」 政宗・義光「ヒャッハーーーーー!!」#真田丸 ※伊達・最上は上杉領をしつこく襲撃し続けます
2016-09-18 20:44:52政宗「なんてったってよぉ、俺らは内府様より領土は切り取り次第ってお墨付き受けてるからよお〜」 義光「庄内の鮭をゲットしてサーモンパーリーはこれからよぉ!」 政宗・義光「ヒャッハッハー!腕がなるぜぇ!!」 #真田丸
2016-09-18 20:47:24慶長六年初めというと、最上義光に徳川家康から庄内切り取り勝手が許可されたあたり。これで庄内出兵していた諸侯軍と義光との序列が確定
2016-09-18 20:47:46直江兼続が米沢撤退完了で北の関ヶ原も終わり、という描写が多いんですが、上杉は伊達と最上と殴り合いながら釈明を考えるという、真田父子以上にある意味ハードな慶長五年後半戦が待っています。涙目の御屋方様と、目から光が消えた直江さんががんばっていると脳内補完してください #真田丸
2016-09-18 20:50:32義光は十月には庄内へと進出、さらには家康から「来年春には上杉を征伐するからよろしくね」と命じられます。冬の間、家臣に命じて武装を固め、翌春には引き続き庄内を攻めます #真田丸
2016-09-18 20:53:50同じ頃、上杉家は十月には本庄繁長を上方に派遣、翌年七月家康に対面し、八月に120万石から30万石へと、正式減封されることとなります #真田丸
2016-09-18 20:55:18とはいえ、上杉勢は当然強く、伊達勢を撃退します。後年直江兼続が伊達政宗をdisるネタを集めたのは(真偽不明のものもふくめ)、だいたいこのころです #真田丸
2016-09-18 20:56:44義光は家康の停戦令が届くまで、庄内でヒャッハーを続行します。義光はハッキリ言ってものすごく絶好調です。上杉勢は伊達勢防戦のためにどうしても東に注力していますし、義光は降伏させた元上杉の将をうまく使えました #真田丸
2016-09-18 20:59:00え、これ、丸キャストで見たい。北の関ヶ原で真田丸スピンオフやりましょうよNHKさん!! twitter.com/mogapro/status…
2016-09-18 21:00:17直江兼続の撤退はスムーズでしたが、一方で情報が届かなかった上杉勢は最上に降伏することになりました。彼らは庄内攻めで「転職したてたがらいいこと見せないと!」と張り切ったわけです #真田丸
2016-09-18 21:00:42戦国時代、出羽や陸奥では領主が支配地名を名乗っていた。最上地方を治めた斯波氏が二代目以降最上氏と名乗るようになったのだ。私の弟、息子、家臣もこの通り。長瀞義保、山野辺義忠、延沢満延等。
2016-09-18 21:01:10義光の人生において、一番侵攻ぶりが冴えていたのは慶長五年から六年じゃないか、というかんじ。いろいろと好条件が重なった結果であり、彼自身は出馬していませんが。それが必ずしもよかったかは、ちょっと難しいかもしれません #真田丸
2016-09-18 21:02:31そんなわけで最上義光は出番がないまま、今週と来週の間におそらく死亡するんですけど、政宗くんは再登場が十一月くらいからあるので、引き続き #真田丸 を楽しみにしたいと思います!
2016-09-18 21:03:52ちなみに伊達と最上が上杉領を襲いまくったのは火事場泥棒というわけではなく、家康の許可あってのものです。「百万石のお墨付き」という契約時に決まった報酬があったわけではなく、「切り取り次第」という出来高ボーナスを約束されていたわけです #真田丸
2016-09-18 21:18:45「百万石のお墨付き」に関しては、家康があとから約束を破ったわけではなく、南部でポカやったから反故にされたわけでもなく、慶長五年から六年にかけて、政宗の切り取った領があの石高相当だった、ということじゃないかと思います #真田丸
2016-09-18 21:21:53一方その頃 最上義光は 庄内地方で 着実に勢力を伸ばし続けていた...,,, #真田丸 pic.twitter.com/iI9Z6vf0zq
2016-09-18 21:42:45