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直江兼続の生涯をまとめてみた

直江状でも有名な、戦国~安土桃山~江戸前期の武将で米沢藩の家老・直江兼続の生涯を訪ねた史跡写真と共にまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1620年1月23日(元和5年12月19日)戦国~江戸時代前期にかけての武将で米沢藩(現:山形県東南部置賜地方)の家老・直江兼続が江戸鱗屋敷(現:東京都千代田区霞が関付近)で亡くなりました。享年60歳。 兼続の死後、直江家は断絶しています。 #直江兼続 #上杉景勝 #米沢藩 pic.twitter.com/nB80cLrxQl

2018-01-23 18:44:56
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生誕から直江家の相続までは諸説あり、立証する信憑性が有る史料は確認されていないようです。 直江兼続は越後上田庄で1560年(永禄3年)樋口兼豊(木曾義仲の重臣・今井兼平の兄弟で樋口兼光の子孫と伝わる)の長男として、坂戸城下(現:新潟県南魚沼市)に生まれたとする説。

2018-01-23 22:23:47
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

また、現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が多い事から湯沢で生まれたとする説があります。父・兼豊の身分についても不明瞭な点が多く、母の出自もはっきりとした事は解っていません。

2018-01-23 22:23:47
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1564年(永禄7年)上田長尾家当主の政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍したとも、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け幼い頃から近侍していたとも言われています。

2018-01-23 22:23:48
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1578年(天正6年)謙信急死後に起こった上杉家の後継者争い「御館の乱」が収束。 戦後処理が行われる1580年(天正8年)から、景勝への取次役など側近としての兼続の活動が資料で確認されていて、同年9月23日(8月15日)には景勝印判状の奏者を務めています。 pic.twitter.com/ZIhsvmNrvO

2018-01-30 21:45:50
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大河ドラマ「天地人」では上杉景虎役を玉山鉄二さんが好演していましたね|-`).。oO

2018-01-30 21:45:52
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1581年(天正9年)景勝の側近の直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きます。 後に兼続は景勝の命で直江景綱の娘で信綱の妻・お船の婿養子となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となります。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制となりました。

2018-01-30 21:45:52
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上杉景勝は御館の乱で甲斐武田氏と同盟関係でしたが、1582年(天正10年)織田信長の武田領への侵攻で甲斐武田氏は滅亡し、武田遺領には織田家臣が配置されます。 しかし、1582年(天正10年)6月21日の本能寺の変で信長が横死すると武田遺領を巡る天正壬午の乱が起こります。 pic.twitter.com/tzzOpkbtBg

2018-01-30 21:45:53
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景勝は武田方に帰属していた北信国衆や武田遺臣を庇護し、北信の武田遺領を接収。兼続は信濃衆との取次や帰参の窓口を務めています。 1583年(天正11年)頃より山城守を称します。1584年(天正12年)末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになります。

2018-02-03 01:17:47
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

秀治の死後は単独執政を行ない、兼続が亡くなるまでまで続きました。当時の上杉家臣たちは景勝を「殿様」「上様」兼続を「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものだったようです。 1586年8月7日(天正14年6月22日)主君・景勝が従四位下・左近衛権少将に昇叙転任すると、兼続も従五位下に叙せられます。 pic.twitter.com/XEfpWpGnIB

2018-02-03 01:17:47
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1581年(天正9年)7月に起こった新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていました。 1583年(天正11年)当時湿地帯だった新潟は上杉勢が豪雨により敗北。兼続は対策として、川筋が定まら流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削して、現在の新潟平野の基礎を造ります。

2018-02-03 01:17:48
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着々と新発田勢を追い詰め、1586年(天正13年)1月 新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐しました。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化。1587年(天正15年)11月に兼続は新発田城の支城の五十公野城を陥落させます。その後、新発田城も落城し、乱は収束しました。 pic.twitter.com/2BJCDvM5LB

2018-02-03 01:17:48
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1588年(天正16年)10月7日には景勝に従って上京し、須田満親・色部真長らと共に豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜ります。 1589年(天正17年)の佐渡征伐には景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられます。

2018-02-03 01:17:50
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

翌1590年(天正18年)の小田原征伐でも兼続は景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略します。 1592年(文禄元年)からの文禄・慶長の役では景勝と共に参陣して熊川倭城を築城。 pic.twitter.com/KHV8MRtZip

2018-02-03 01:17:50
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上杉領となった庄内地方でも大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切っています。安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走します。 兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励し、越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となりました。

2018-02-03 01:17:52
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

また産業を育成し商業の発展に努めます。その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用繊維です。 魚沼郡に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重なものでした。

2018-02-03 01:17:52
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

この青苧を増産させ織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げたのです。 京都へ輸出する事を献策したのは、出羽米沢藩御用達の京都の豪商・西村久左衛門乗安でした。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらします。

2018-02-04 02:19:26
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1598年(慶長3年)秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられます。 しかし、1598年9月18日(慶長3年8月18日)秀吉が死去すると徳川家康が台頭するようになります。 pic.twitter.com/pj9e2Z1HUW

2018-02-04 02:19:26
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景勝・兼続主従は前領主・蒲生家の居城・若松城に代わる新しい(神指城)の築城を始めており、これは戦の為ではなく会津の町を新たに作り直す狙いがあったようです。

2018-02-04 02:19:28
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

しかし、一方で兼続は本来国替えの引継ぎで半分残していかなければならない年貢を景勝に無断で全て会津へ持ち出してしまいました。 年貢を持ち逃げされてしまった堀秀治が返還を求めても無視した結果、怒った秀治は上杉家謀反を家康に訴え、家康は上杉家を詰問します。

2018-02-04 02:19:28
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

この時、家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなったのが返書・直江状です。 文面は後世に大幅に改竄された可能性が指摘されているものの、家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には

2018-02-06 23:34:43
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」などとある為、 家康を激怒させた兼続の書状が存在したのは事実のようです。

2018-02-06 23:34:43
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

奉行衆の諌止もあってか、直江状の後も上洛が計画されますが讒言の真偽の究明が拒否された為、景勝は上洛拒否を決断。 関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こします。兼続は越後での一揆を画策するなど、家康率いる東軍を迎撃する戦略を練っていました。

2018-02-06 23:34:43
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

その頃、石田三成が挙兵した事で家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。その後、一揆勢と交戦していた堀秀治の率いた軍が撤退し、東軍に所属する前田利長を攻撃する構えを見せます。 三成から「堀秀治が西軍側についた」という知らせを受けた兼続は一揆勢力に攻撃の中止を命令します。 pic.twitter.com/icMYNNNp2I

2018-03-13 20:24:40
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

兼続は東軍の最上義光の領地・山形に総大将として3万人を率いて侵攻しますがこれは秀治の策略でした。 利長に攻撃を仕掛けるよう見せかけていた秀治は、東軍への参戦を明白にしてすぐさま越後の一揆勢への攻撃を再開。 pic.twitter.com/xMB8BZN7Uh

2018-03-13 20:24:42
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