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直江兼続の生涯をまとめてみた

直江状でも有名な、戦国~安土桃山~江戸前期の武将で米沢藩の家老・直江兼続の生涯を訪ねた史跡写真と共にまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

事態に気付いた兼続は、再び一揆勢を扇動しようとするも間に合わず、秀治率いる部隊によって、一揆勢は壊滅してしまったのです。 最上家と上杉家は、庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係は決して良好ではありませんでした。 pic.twitter.com/hlzcbfZC1P

2018-03-13 20:24:44
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さらに、上杉家から見ると自領は最上領に分断されており、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれていました。 当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていましたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減します。

2018-03-13 20:24:45
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義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていました。 義光の動きを察知した兼続は機先を制します。義光は戦力集中の為、一部の支城の放棄を命じますが、畑谷城を守る江口五兵衛などはこの命令を拒否して籠城。

2018-03-13 20:24:45
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上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略します。その後、同じく志村光安が守る長谷堂城を、里見民部が守る上山城を攻める。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出ました。 上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失います。 pic.twitter.com/A5cvT5e9jo

2018-03-13 20:24:46
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上杉軍は守備側の激しい抵抗で攻略出来ず、別働隊は最後まで兼続の本隊には合流出来ませんでした。 長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行いますが、志村光安・鮭延秀綱ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、上泉泰綱を討ち取られるなど多数の被害を出します。

2018-03-13 20:24:47
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大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながらも戦闘は長引き、関ヶ原敗報がもたらされるまで上杉軍は約2週間も長谷堂城で足止めを受け、攻略で出来ませんでした。 その頃、美濃国(現:岐阜県不破郡)では関ヶ原本戦が行われていました。 pic.twitter.com/91wUSmZmEQ

2018-03-13 20:24:47
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本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始します。 勢いに乗った最上軍と義光救援の為に伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になりますが、水原親憲・前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあり、米沢への撤退に成功します。 pic.twitter.com/2bLvlX8hnw

2018-03-30 23:47:17
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この撤退戦の見事さは語り草となり、兼続は敵である義光や家康にも称賛されます。 しかし結果として上杉軍の最上侵攻は山形の攻略に失敗し、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、伊達軍の福島侵攻を誘発します。

2018-03-30 23:47:19
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景勝・兼続主従は背後を脅かす最上・伊達を屈服させ、関東へ侵攻する構想を抱いていましたが、 関ヶ原本戦の決着が一日で付いてしまった事もあり、実現出来ないまま降伏へ方針を転換する事となりました。 pic.twitter.com/RllRKs4ih1

2018-03-30 23:47:19
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1601年8月16日(慶長6年7月18日)兼続は主君・景勝と共に上洛して家康に謝罪。 家康から罪を赦された景勝は出羽米沢(現:山形県米沢市)30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許されました。その後は徳川家に忠誠を誓い、1608年2月19日(慶長13年1月4日)重光と改名します。 pic.twitter.com/jZizeWof8s

2018-04-11 22:55:23
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兼続は新たな土地の開墾を進める為に治水事業に力を入れます。米沢城下を流れる最上川上流には3kmに渡って巨石が積まれ、川の氾濫を治める為に設けられたこの谷地川原堤防は「直江石堤」と呼ばれています。 また新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めました。

2018-04-11 22:55:25
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また町を整備し殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築いていきます。 他にも上杉家と徳川家の融和を図る為、徳川家重臣本多正信の次男・政重を兼続の娘の婿養子にして交流を持ち、1609年(慶長14年)正信の取り成しで10万石分の軍役が免除されるなど、上杉家に大きく貢献。 pic.twitter.com/NvN08tdTWk

2018-04-11 22:55:26
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のちに政重との養子縁組が解消された後も本多家との交流は続きました。 1614年(慶長19年)正月には松平忠輝の居城・高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下に主君景勝と共に天下普請を行なっています。 同年の大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げました。

2018-04-11 22:55:27
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景勝が徳川秀忠に従って上洛した年の1620年1月23日(元和5年12月19日)兼続は江戸鱗屋敷(現:東京都千代田区警視庁)で病死します。享年60歳でした。 景勝は兼続が病床に臥すと、大いにこれを憂え、医療の最善を尽くさせたと伝わります。兼続の死去を知った幕府は賭典銀50枚を下賜したそうです。 pic.twitter.com/2SKTMVjNMY

2018-04-11 22:55:27
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兼続は米沢の徳昌寺に埋葬されますがその後、徳昌寺と林泉寺の間に争いが起こり、敗れた徳昌寺が廃絶。後に藩庁の裁定により林泉寺に合祀されました。 兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶。 pic.twitter.com/lDVTNuEHxU

2018-04-11 23:15:51
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「上杉家の減移封を招いた責任を感じていた為」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助ける為」など、 意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説もあるようです。これらの説に確証は無いものの、養子縁組解消した本多政重の加賀藩帰参により、

2018-04-11 23:15:53
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

多数の上杉家・直江家家臣がそれに付き従って加賀藩に仕官する事となり、上杉家は結果的に大幅な人員削減が出来た事はは事実です。 兼続の死からおよそ3年後の1623年4月19日(元和9年3月20日)上杉景勝も米沢城で亡くなります。享年69歳。

2018-04-11 23:15:53
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

後は嫡男の上杉定勝が継ぎました。石高の変遷はあったものの、米沢藩上杉家は幕末まで続きます。 山形県米沢市林泉寺。ここには上杉家に忠節を尽くした直江兼続とその妻お船のお墓が在ります。 pic.twitter.com/4jEMrkpGfN

2018-04-11 23:15:53
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

大河ドラマの影響もあるかもしれませんが、上杉家が幕末まで存続する足掛かりを作ったのは直江兼続の存在が大きかったのではと思います。 上杉景勝のお墓はこの林泉寺より北に上った上杉家廟所に在ります。死してなお、兼続は景勝を盛り立て、上杉家を見守っていたのかもしれません。 pic.twitter.com/SNWxkDmV6O

2018-04-11 23:24:25
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これにて直江兼続公の歴ツイ終了です。 (-ω-;)ウーン・・・終わるまで長すぎた゜(´⊃ω⊂`)゜。

2018-04-11 23:28:39
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

今回の歴ツイで過去に訪ねた所縁の地マップを作成してみました。 google.co.jp/maps/@36.79403…

2018-04-13 23:49:38