「創作」と「教育」について宮崎市定博士の『科挙』を思い出す。旧中国では地方ごとに学校はあったが有名無実で、みな私塾や家庭教師で受験勉強に励んでいた。きちんとした教育機関を作らずに、試験制度だけ作って受験生を集めるのは、国家にとって一番楽だった。なり手はいくらでも来るのだから。
2011-02-20 13:07:38科挙の存在はヨーロッパに衝撃を与えたらしく試験による人材登用が行なわれるようになるが、学校が無視されることはなかった模様。そこから生まれる学歴・学閥主義の弊害はさておくとして、学校無用論は創作分野だけでなく、旧中国のように全ての分野に拡大されるものだってのはコジツケか。
2011-02-20 13:19:49@ashibetaku 隋唐期の科挙は、官僚になる『資格』を測る試験であり、官僚の『採用』は別に行われていました。具体的に言うと、科挙の試験自体は礼部が、実際の採用は吏部が行っていました。そして、吏部は貴族の牙城でした。
2011-02-20 13:31:07@ashibetaku だから、「科挙には通ったけど官僚になれない」例もよくありました。韓愈などはそれで十年以上も採用されませんでした。
2011-02-20 13:31:44@ashibetaku 一方、試験自体でも不正がないわけでもなかったらしく、科挙合格者が満足に論語の内容を知らない等の例もありました。なので対策として皇帝自らによる殿試が行われるようになりました。
2011-02-20 13:34:19@ashibetaku 殿試が行われるようになると、試験合格者は『皇帝のお墨付きを得た人物』ということになります。五代十国の動乱による貴族層の没落も相まって、宋では科挙官僚による政治が盛んになりました。
2011-02-20 13:36:22@ashibetaku ただ、「試験だけでは人間性とか測れない。孔子とその弟子達のように、長い時間を掛けて人間性まで観察すべきであり、そのために学校を作るべきだ」という主張が宋の中期以降になされることになります。
2011-02-20 13:39:15@ashibetaku 王安石は実際にその改革を行い、学校での成績優秀者は科挙をパスする制度を作ります。が、この制度自体は(新法派と旧法派の派閥抗争などもあり)結局は上手くいきませんでした。が、学校を整えたこと自体は追い追い影響が出てきます。
2011-02-20 13:42:07@ashibetaku 科挙が廃止された元朝期を経て、明の時代には科挙の受験資格が学生(生員といいます)に限られるようになりました。そのため、生員になるための試験が行われるようになりました。
2011-02-20 13:43:43@ashibetaku 生員になったら国立学校の学生になれますから、一応の国の教育が受けられます。まぁ、国の教育だけでは科挙の本試験に合格できなかったのは事実ですが。
2011-02-20 13:45:11@ashibetaku ただ、学校に行けば一応の教育を持った人がいて、一応一通りの書物は揃っている、という状況にはなりました。大都市ならともかく、中小都市ではそのことが地方文化における学問の普及に一定の役割は果たしていたようです。
2011-02-20 13:47:21@ashibetaku 生員の主な食い扶持は、生員になるための試験を受ける人への家庭教師でした。なんだか現代の大学生が家庭教師をする構図のようです。
2011-02-20 13:48:22@ashibetaku 科挙試験は実際問題としてどの程度の人にまで門戸が開かれていたか、というとそれは学者が一生掛けて研究できるテーマであり、私も全てを語り尽くせるわけではありません。ただ、「村の有力者」レベルならば、一族の相互扶助なども利用して、挑戦する道はありました。
2011-02-20 13:53:21@ashibetaku 逆に、科挙試験を受ける上で一番有利なのは現職官僚の子弟です。なにせ書物などの勉強する環境は整っていますし、親も教養豊富ですから。ですが、科挙官僚は三代続くことは稀という程度には、厳しい試験でした。
2011-02-20 13:55:15RT @giteki: 濃厚な解説に感謝です。僕が述べたのは明以降で、漠然と『聊斎志異』などに登場する生員(秀才)たちの背景を思い浮かべてでした。僕の理解では彼らは府・州・県学の在学生だけれど、単に籍を置いてるだけで通学し授業を受けてるイメージがないのですが違いましたか。
2011-02-20 14:06:10@ashibetaku 結局の所、学校に行ってそこでの成績とか授業態度とか人間性とかを評価する体制でなかったのは事実です。(安石はそうしたかったようですが……結局は無理でした)。
2011-02-20 14:11:50@ashibetaku ただ、たとえば科挙の試験で経典の解釈が問われたりしますが、学校に行けば元の経典は揃っていますし、朱子学(公式解釈)に基づく解釈書も一通りはあります。解釈を議論する相手もいます。
2011-02-20 14:17:00@ashibetaku もちろん、北京や南京のような大都市ではそういうことをする上で学校より良い場はいくらでもあったわけですが(各種のサロン的な場所とか)、地方では『学校』というのも一つの選択肢になっていたようです。王朝がどこまで意図した政策かは難しいですが。
2011-02-20 14:18:37あくまで経書の講義にとどまってたのでしょうね。それも学界の主流からズレた先生が時代遅れの授業をするといった…… RT @giteki: @ashibetaku 結局の所、学校に行ってそこでの成績とか授業態度とか人間性とかを評価する体制でなかったのは事実です。(安石はそうしたかった
2011-02-20 14:19:32@ashibetaku 明以降は朱子学が公式の学問です。公式の学問であると言うことはどういうことかというと、「経典のどこどこの解釈を述べよ」という試験が出たとき、朱子学的見地に基づく解釈をすれば試験に受かりやすくなります。
2011-02-20 14:21:59@ashibetaku 学会の主流、と言うと、例えば明の時代には心学(陽明学)が出てきたり、清になると考証学が出てきたりします。が、バリバリにそっちの説を書いたとして、試験官がそれを評価してくれるとは限りません。
2011-02-20 14:23:45@ashibetaku もちろん、陽明学的な答えを書いたら受からないか、というと、採点者次第です(陽明自身、ちゃんと科挙に通っています。)ただ、朱子学的解答をした方が受かりやすい、という話です。
2011-02-20 14:25:16