去年亡くなった母方の祖父は僕には話してくれなかったが、被爆直後の広島に野次馬で入った。たぶん二次被爆してるはずだが、本人は被爆申請をしなかった。他に申請すべき人がいるはずだからしなかったらしい。
2010-08-05 22:37:41父方の祖母は広島郊外の病院に勤務していて、あの日の朝にキノコ雲を見た。翌日、博多から広島へ移動していた軍人の兄がやってきて「広島は壊滅している、心配で病院まで駆けつけた。」ということだった。彼の上司は広島に早く着いていたので被爆に遭い行方不明だった。
2010-08-05 22:46:20今思えば、俺のバックボーンって、小学校4年のころから読み始めた、祖父の家にあった昭和40年刊行の「毎日新聞・40年間の軌跡」っていう、新聞圧縮版じゃなかろうか。二分冊で戦前と戦後に分かれてて、戦前の巻ばかり読んでた。いまだに1945年以前を「昔」と思えないのはきっとそのせい。
2011-02-23 11:51:42未だに俺が、15年戦争の経緯を中国大陸メインで考えてしまい、太平洋の戦いに疎いのも、きっと、子供の頃に「毎日新聞 40年の軌跡」で、当時の新聞記事ベースに、戦史を学んだからだと思う。子供の頃の刷り込みって怖いな。
2011-02-23 11:55:24そんな俺が、「その路線」から距離を置くようになったのも、祖父の影響だな。中学生になって一緒に護国神社に行ったとき、俺が「英霊のおかげで今の我々がある」と口走っ瞬間、「お前になにがわかるいうんじゃ!」と、祖父から鉄拳制裁を喰らった。あの時の祖父の目は、一生忘れられん。
2011-02-23 12:10:44今思うと、俺の子供の頃は相当キモかったと思う。祖父が戦友会用に用意してた軍歌集で軍歌を覚え、小4の文集に「大きくなったら幕僚長になりたい」と書き、集団登校で分団長やったときは行列の先頭で「出征兵士を送る歌」を歌い、日教組の担任には「アカちゃん」とアダ名を付けてた。いやぁ、キモイ。
2011-02-23 12:01:48成長が早かったので、小4でいわゆる「ボウボウ」。脛毛も生えてた。ニキビすら出始めてた。そんな子が半ズボンの制服着て、帽子かぶって、ランドセル背負って、集団登校の旗もって、「♪我が大君に召されたる 生命はえある朝ぼらけ〜」って言いながら歩いてたんだから、職質されても不思議じゃない。
2011-02-23 12:05:54あの時俺を殴った祖父の拳は、北支戦線を転戦した皇軍兵士の拳だった。飢えと恐怖に苛まされながら黄河河畔を歩き続けた人の拳だった。自分の生命のために略奪をも犯した人の拳だった。塹壕の向こうにいる敵を殺すために引き金を引いた人の拳だった。その人に俺は殴られた。あの痛みはまだ残っている。
2011-02-23 12:18:12北支を転戦し辛酸をなめつくした祖父は母方の祖父。父方の祖父は、酒と女が好き過ぎて、戦中をほぼ営倉で過ごしたというのが自慢の人。影響を受けたのは母方の祖父かもしれんが、虚心坦懐に己を省みるに、より濃く血を受け継いでいるのは、父方の祖父だと思うw
2011-02-23 12:22:39自分の祖父が皇軍兵士だったり、親戚に被爆者がいたり空襲経験者がいたりして、親戚の集まりになると、「あの頃の話」が出てくる・・・ってな経験をしてるのは、我々団塊ジュニア世代が最後なんじゃないのかな。だとすると、我々の世代も、「子供に語らねばならぬこと」が沢山あるんだよ。
2011-02-23 12:26:58俺はもちろんあの戦火を知らない。戦場の悲惨さも飢えの怖さも炎の恐ろしさも、みんな祖父母や親戚からの伝聞だ。だから俺は自分の子にあの戦火を伝える事はできない。 ただ、「ちゃんと自分の頭で考えて、自分の意志で投票しないと、えらいことになるぞ!」っていう教訓だけは、伝えていこうと思う。
2011-02-23 12:31:54私たち世代が聞ける「あの頃の話」って、当時の小学生の感想だからなぁ RT @noiehoie 親戚の集まりになると、「あの頃の話」が出てくる・・・ってな経験をしてるのは、我々団塊ジュニア世代が最後なんじゃないのかな。だとすると、我々の世代も、「子供に語らねばならぬこと」が沢山ある
2011-02-23 16:07:21