12月8日 日米開戦の日、身近な人(祖父母)から聞いたエピソード集
- dekaihiroshi
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今日は12月8日、70年前、真珠湾奇襲。身近(祖父・祖母)な人からお聞きしたエピソードをRTしています。
2011-12-08 21:00:42@inosenaoki 落下傘部隊だった父の話をよく聞いていました。今更ながらもっともっと聞いておけば良かったと。母は大森から府中まで姉をおんぶして歩いて逃げたとか。恐ろしいほどの経験をして、87歳の母は逞しく元気で優しいです。もっともっと戦争の話を聞いておきたいです。
2011-12-08 07:55:36@inosenaoki 真珠湾攻撃の日。ハワイに行った時搭乗したヘリが、真珠湾攻撃の零戦の進撃ルートで飛んでくれた。その後ホノルル空港からの管制待ちの間、まさにアリゾナの上空で待機。沈んだアリゾナの姿と、未だ流出している油が衝撃でした。
2011-12-08 08:50:34@inosenaoki 詳しく分からないのですが祖母の弟が飛行機に乗っていて出陣の見送りに行ったが、出陣=死な為 姉二人がしがみついてなかなか離そうとしなかったと聞いた事があります。戦争を知らない世代ばかりになるのは少し怖いような気がします。
2011-12-08 10:38:29@inosenaoki 祖父は、終戦時、警察官としてソウルに赴任してましたが、戦争に負けた途端、日本人と言う事で命を狙われ、命からがら釜山に辿りつき、さらに、そこからの釜山~門司?の船団が攻撃され、前を行く日本人を大量に乗せた船が次々に撃沈されるという壮絶な話を生前聞きました。
2011-12-08 10:42:43@inosenaoki 母方の祖父は満州鉄道職員で、真珠湾攻撃を知ったとき日本の土は踏めなくなると覚悟したそうです。その後日中戦争になり大陸は地獄絵図だったと聞きます。
2011-12-08 10:42:50@inosenaoki 妻の伯父がコタバル上陸作戦に参加しました。戦友会で刊行した戦記も読ませてもらいましたが、奇襲のはずが敵に気づかれてしまい、壮絶な戦闘になったそうです。夢にも見るとか。でも、戦争に行って人生観が変わったかの質問には「別に変わんねえな」でした。今も健在です。
2011-12-08 10:45:39@inosenaoki 78歳の父は周囲の大人が騒いでいたと言っています。当時小学2年生だった父は異様な雰囲気だったという事を今でも覚えているそうです。77歳の母は父から「今どこの国が戦争に参加しているか」と聞かれて答えると、頭を撫でて誉められたそうです。
2011-12-08 10:46:04@inosenaoki 亡き祖父母に幾度となく問いかけたのだが、口から出るのは終戦後のことばかり。 軍属パイロットだったはずだから 色々聞きたかったのですが残念です。もし「昭和16年夏の敗戦」があと10年早く上梓され、小学生の自分でも読めていたなら、祖父と会話ができたかもしれない
2011-12-08 11:17:19@inosenaoki そういえば始まりのところって聞いたことないまま他界。1208を当時はどう受け止めていたか、生々しい戦闘や満州引きあげの語りと同じぐらい大事な部分だったと今になって自覚。
2011-12-08 12:32:07@inosenaoki 「出勤しようと玄関で靴ひもを結んでいるときにラジオで日米開戦せりとのニュースを聞き大変なことになったと言葉では言い表せない複雑な気持ちに襲われた」と毎年のように聞かされました 2007年3月に96歳で亡くなりました 素晴らしい父、祖父でありました
2011-12-08 12:35:29“@inosenaoki: ”私が学生時代に当時の小学校の先生にインタビューした際、当時、周囲一同、高揚した雰囲気だったそうです。勝つに決まっている、やったぞ!という空気で、ネガティブに捉える人は殆どいなかったとのこと。郊外の農村です。
2011-12-08 13:02:39@inosenaoki 12月8日は父方祖母の命日。先日、二十七回忌を済ませた。生前、昭和16年12月8日の大東亜戦争開戦を憎んでいた。(詳細は個人情報により割愛)海軍軍人である夫と、娘を失ったから。あの戦争がなければ…幼き父と祖母の苦労が窺い知れる。靖國の英霊は我が家の誇り。
2011-12-08 16:03:03@inosenaoki 父は昭和12年頃米国に留学して両国の国力の差は十二分に認識していたはずなのですが、その父でも真珠湾攻撃のニュースに快哉を叫んだと後に言っておりました。半藤一利著「戦う石橋湛山」を読み、父をもそうさせたのは当時の大新聞の論調だと確信しました。
2011-12-08 16:57:2770年前の12月8日何をしていたか?祖父母と祖母に尋ねてみましたが望む回答は得られず。戦争の思い出、祖父母の出会、新婚時代の話に花が咲きました。「その頃」は覚えていても「その日」は思い出せず。他の皆さんのエピソードに期待しています。@inosenaoki
2011-12-08 18:58:52@inosenaoki 10余年前、戦艦ミズーリー前で、日系人の方が、日本人修学旅行生に対し、いかに日本軍が卑劣であったかを力説しているのを見て、非常に寂しい気持ちになりました。せめて学生達が、教科書以外で、自らの手で史実を学習するきっかけになることを祈るばかりでした。
2011-12-08 20:55:52"@inosenaoki 母方の祖父は満州鉄道職員で、真珠湾攻撃を知ったとき日本の土は踏めなくなると覚悟したそうです。その後日中戦争になり大陸は地獄絵図だったと聞きます。"祖父はエンジニアで開戦当時朝鮮にいた。日米開戦の報を聞いて、敗け戦となることを予感した
2011-12-08 20:58:27@nagomino_kiwami @inosenaoki 父方の祖父は旧満鉄テクノクラート、その息子(老父)は予科連育ち、いわば敗戦帰国二世。母方の祖父は内地の篤農家なのに、英語ができるだけで睨まれたらしい...
2011-12-08 21:04:50@inosenaoki 今日は亡くなった義父の誕生日でした。生前、開戦の日と同じなので戦時中は周りから羨ましがられて気分が良かったと自慢していました。
2011-12-08 21:07:36@inosenaoki 12月8日の話は聞かないままでした。ただ、空襲の話は聞いています。逃げ込もうとした建物が一杯で他へ逃げて、後で見たら爆弾が直撃してて九死に一生を得たとか…幼稚園の頃聞いたきりで朧げですが。
2011-12-08 21:12:37@jjjhaga @inosenaoki 私の老母(S.09、内地)は開戦の詔勅は知らない。よく老父(S.03、外地)と諍いになる、この時期は^^;
2011-12-08 21:14:07