12月8日 日米開戦の日、身近な人(祖父母)から聞いたエピソード集

12月8日 日米開戦の日、身近な人(祖父母)から聞いたエピソード集 猪瀬直樹氏 @inosenaoki RTまとめ。 すいません、かなり適当にまとめています。ヌケもあるかもしれません。 皆さんの良心を信じて編集可能にします。 間違い等々ありましたら、修正をお願いします。 続きを読む
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梅椿 @say_you525

@inosenaoki 私の祖母は学校の教師をしていました。戦時中、教え子(高等科)の中から戦場に送り出す優秀な人材を人選しなければならず、大変苦しんだそうです。祖母は亡くなるまで彼らのために手を合わせ続けていました。

2011-12-08 21:16:57
ぎん @yamai888

@inosenaoki 祖父は中国で軍人として終戦を迎え、その後、シベリアに抑留されていました。祖父の腕に残る銃創が子供の自分にとっても、戦争の生々しさを感じさせました。あまり戦時中のことは語ろうとはしない祖父でしたが、語るもおぞましい事が多々あったものと想像しています。

2011-12-08 21:18:14
ポルコ @ymamitch

祖母は当時、釧路の駅で働いていた。駅が爆撃を受け、自宅も住めない状況に。兵隊さんの防空壕で2~3日過ごし、飯ごうでご飯を食べさせてもらったそう。これからの若い人にもあんな経験はさせたくない、と。@inosenaoki

2011-12-08 21:22:27
denseinc @denseinc

@inosenaoki 小学生の時、担任の先生に今日が自分の誕生日以外の重要な日だと初めて教わりました。今年の終戦記念日に真珠湾戦争博物館に行きました。日本軍の攻撃については詳しく説明がありましたが、原爆や終戦については軽い説明のみ。日米両国での違いに戦争の深さを実感しました。

2011-12-08 21:24:36
g_mnkw @g_mnkw

@inosenaoki 母は戦後生まれ、その父である祖父は既に故人。彼の生前母が聞いた話は関東軍、満州にいたということのみ。終戦時の本籍地が東京だったので先日都庁に軍歴証明を請求したら東寧要塞建設に従事、最後は福岡の本土決戦部隊にいたことがわかりました。

2011-12-08 21:24:45
umeziso @umeziso

@inosenaoki 米寿の祖父は南の島に出兵し、浜に届く少ない食糧を森に潜んだ脱走兵に襲われないように全速力で基地まで運んだそうです。一緒に雑誌のダイビング特集を見ていた時に思い出したらしく、戦友の遺体は持ち帰れず小指を持ち帰ったことや生の猿肉の不味さなども語ってくれました

2011-12-08 21:26:02
kamatakazuyuki @kamataks

@inosenaoki 今日の話ではないのですが 満ソ国境にてソビエト軍と対峙 17か18日に士官が来て戦闘中止 そのまま5年の抑留 私が中学生の頃飲んで気分の良い時によく話してくれました。大正9年生れの親父 です17年前に逝去しました

2011-12-08 21:26:58
ポルコ @ymamitch

祖父、昭和16年は地元で働いていた。19年から軽爆撃機で中国へ。日本には戻れないかもと思っていたが20年に終戦を迎え南朝鮮に着陸、船で九州、列車で九州→中国地方→…北海道へ帰還。北朝側に降りていたらシベリア送りだったかも。これも運かな。おかげで私が存在してる@inosenaoki

2011-12-08 21:32:17
makim @makimur

@inosenaoki 祖父は軍医でした。七三一部隊にいたようです。戦中、銃撃を受けましたが、体内に弾丸が留まり、九死に一生を得ました。戦後も医師として働き続けましたが、戦争のことは子どもたちに一切語りませんでした。1996年に亡くなり、火葬後、骨の中から弾丸が見つかりました。

2011-12-08 21:32:50
柳楽健太 @NAGIJEE

@inosenaoki 祖父では無いですが、召集され沖縄へ行かれた方にお話を伺いました。その話の中で戦友会で戦友が何故自分は生き残ってしまったのか、あの時自分も死ぬべきだったと命を絶ちそうな勢いで嘆かれるそうです。そのお話に決して癒える事の無い戦争の傷を思いました。

2011-12-08 21:35:35
パトリック・ザラ @Zelarna

@inosenaoki 電気の通っていなかった栃木県の田舎では、リアルタイムで得た物は何もなかったようです。我が家では、その後戦死した叔父の命日が重たいですね。

2011-12-08 21:36:56
次男三郎 @Sean_Ocon

@inosenaoki 大阪大空襲のあと安全な場所を求めて広島に移り住んだ祖父母は、原爆より空襲が怖かったと言っていたのに衝撃を受けた。原爆は予備知識もなかったし、一瞬で終わったから。

2011-12-08 21:40:06
Shingo Maezawa @sgmzw

@inosenaoki 祖母は18歳、東京音楽学校の一年生だったそう。寮暮らしでラジオすら無く、自宅通学生から「今日アメリカと戦争をはじめたのよ」と聞いて、ポカーンとしたそうです。日常的に教練はあったものの、実感が伴わなかったとのこと。

2011-12-08 21:40:19
Masatsugu Iwabuchi @buchi_mabo

@inosenaoki 昭和19年、当時7歳だった父が、誤ってナタで人差し指の先を切り落としてしまった時、彼の祖母は「孫が戦争に行けなくなったー」と泣いたそうです。戦局が悪化していたこの時期で、この感覚。70年前の戦争は、日本人全員が「責任ある当事者」だったのだと改めて感じます。

2011-12-08 21:43:08
あつなお @blueVehicle

@inosenaoki 祖父は軍医として南方に行っていたそうです。上官から脱走兵の処刑(斬首)を命じられ、実行したと聞きました。軍医として耐え難い行為でしたが、とても逆らえるような状況ではなかったそうです。

2011-12-08 21:45:48
笑門来福 @warakado55

@inosenaoki 伯父は徴兵で南方へ出征。部隊はちりぢり、最後は栄養失調とマラリアで行き倒れたそうです。それを助けてくれたのがインド兵と英国人医師。それが終戦で戦病兵を復員させる輸送船が九州を眼前に停船。コレラが発生した為で何十人も無念の死と生前言っておりました。

2011-12-08 21:46:15
にーるまっけんずぃ @Tateoki_Norzo

@inosenaoki 満州で生まれた父は終戦のとき三歳。自分の名前と引揚げ先を必死に覚え、何とか帰ってくることができました。父は中国残留孤児のニュースを欠かさず見ていました。紙一重だったという思いがあったようです。祖母の話では使用人だった中国人が逃がしてくれたそうです。

2011-12-08 22:01:15
海燕 @umitubamejoe

@inosenaoki 80歳になる母は開戦の報に接し、父親が「えらいことなった」と怖い顔でつぶやいたのを見て、言い知れぬ不安に襲われたそうです。京都ということもあり、空襲はなかったのですが、とにかく開戦からの4年間は戦後何年たとうが長く感じると今もつぶやきます。

2011-12-08 22:40:13
海老根隆志 @ebigreat

@inosenaoki 嗚呼、つい4日前に祖母が他界しました。移民の子として1919年LAに生まれ、10歳まで彼の地に暮らした祖母の目には、戦争とはどのように映ったのか。いまや知る由もありません。記憶のしっかりした人であっただけに残念です。

2011-12-08 22:40:26
チーム 「川田」 @kawada16

@inosenaoki 私がハワイに行った時、日系の女性ガイドが私達に、「真珠湾攻撃の時、私の父は、遠く離れた母国日本から日の丸を付けた戦闘機が頭上を飛んで行った時は、何度も頬を叩き我が目を疑った。と、自慢げに私にいつも話していました。」小さな日本が大国アメリカを相手にまさかと?

2011-12-08 22:42:26
atsushi jun @depression1929

うちの90歳の祖父は、真珠湾攻撃を知ったとき、高揚とまた身が引き締まる思いだったようです。@inosenaoki

2011-12-08 22:49:21
yukkitea @yukkitea

@inosenaoki 片腕を戦争で失った沖縄のおじいさんの話。彼は見張役でした。敵の弾が飛び交う中、天皇陛下から預かった望遠鏡を必死で守ったそうです。彼の言葉「私の命の重さよりも、望遠鏡の方が重かった」が、戦争を知らない私には衝撃でした。

2011-12-08 22:50:18
yasu @yasuboo75

祖父は北朝鮮で村長のようなことして開戦後暫くは父もいい暮らししていたらしい。終戦後はソ連兵に捕まらないよう朝鮮半島歩いて縦断して日本に帰って来たと。 RT @inosenaoki: 今日は12月8日、70年前真珠湾奇襲。身近な人からお聞きしたエピソードをRTしています。

2011-12-08 22:51:02
ggbb @ggbb_2011

小学生の時の校長先生の話が忘れられない。一緒に小便に行った友達の体を、焼夷弾が突き抜けた。あ、やられたとしか感じなかったと。 @inosenaoki

2011-12-08 22:57:29
Yosuke @notravelnolife

関東大震災で被災し、海軍でトラック島に行った祖父は311に急変して翌週静かに息を引き取った。誕生日の翌日だった。痴呆になっても自宅介護中、深夜に上官への報告をし出したり、軍歌を歌っていた。戦争のインパクトは想像出来ない強烈なものなんだろうなと思った。@inosenaoki

2011-12-08 23:12:10
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