12月8日 日米開戦の日、身近な人(祖父母)から聞いたエピソード集
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dekaihiroshi
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@inosenaoki 支那大陸で機甲師団所属だった祖父。負傷し後方に送られ野戦病院で終戦の報を受く。輸送船に乗せられ内地に送り返される時に意見具申するも、上官より「荷物は喋るな」と一喝され生還。その上官はシベリア抑留中に死去。亡くなる間際まで涙を浮かべつつ話しておりました。
2011-12-08 23:17:16![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
愛知県・岐阜県・静岡県その他、中日新聞エリアの方々、「負け戦 封じられた予測」という見出しの1ページの日米開戦特集。『昭和16年夏の敗戦』著者猪瀬直樹さんに聞く、です。今朝の12月8日の朝刊です。告知遅くなってゴメン。
2011-12-08 23:18:14![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@yamadamuneki @inosenaoki 祖父の弟が健在ですが、祖父が19歳の時始めて招集され台灣蛮族征伐戦に参加したそうです。この戦が終わり復員した祖父は人が変わってしまったと話していました。とても優しかった兄の面影はなかったそうです。
2011-12-08 23:30:08![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 開戦当時退役軍人だった私の祖父(戦時中に病死)は真珠湾攻撃の報があった時に、まだ幼かった伯父達の前で「日本は負ける。負けた後どうするかが大事だ」というようなことを言っていたそうです。海の外を知っている人達には勝目のない戦に見えていたのですね。
2011-12-08 23:35:14![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 父の姉の旦那様は満州鉄道職員。終戦後の引き上げの際に「乗船券を引き換えに娘(私のいとこ)を置いていけ」と朝鮮人に言われたと憤っていました。日本人は賢いから日本人の子供が欲しいそうです。
2011-12-08 23:36:33![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
RT @yokozie @nagomino_kiwami @inosenaoki 父方の祖父は旧満鉄テクノクラート>>母方の曾祖父も旧帝大卒の旧満鉄の技師長で現地で結核で亡くなり、葬儀が国葬だったそうです(汗)。
2011-12-08 23:38:25![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 私の祖父は満州からサイパン島の近くのクサイエ島に赴任?していたそうです。今は他界しましたが、サイパンと違い山や森が多かったのでアメリカにやられなかったと言ってました。とうとう怖くてアメリカ兵を殺したのか?は聞けませんでした。
2011-12-08 23:42:18![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 中島飛行機があった土地から今晩は。母方の祖父は体が小さく、内地でした。東京大空襲の日は群馬からでも東京の空が赤く染まっていたのを確認できたそうです。機銃掃射を食らった少国民世代の談では「パイロットの顔のしわが確認できるほど、低空飛行だった」とのこと。
2011-12-08 23:43:34![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 真珠湾攻撃の日の話は聞かずじまいでした。祖父は特攻隊に採られ、もうすぐ出撃というところで終戦になったそうです。祖父が遺したアルバムを見ると、軍服姿の若者の写真が何枚もあります。4年弱の間にたくさんの友人を失ったのだろうなと思います。
2011-12-08 23:43:52![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
高校の恩師は学徒兵として駆り出されたが、もう少し年齢がいっていて、万が一真珠湾に行っていたら出会えなかったんだなぁと思うと運命を感じざるを得ない。当時の様々な想いを、帰還後自らイラストと綴りで残していて、卒業後28年めにして初めて見せてくれた。 RT @inosenaoki:
2011-12-08 23:48:03![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 母の生まれる前、祖父母一家が満州にて終戦を迎えました。歴史好きな私は、何度か満州からの撤退旅に付いて聞きかけましたが、終戦直後のあの壮絶な歴史の当事者の可能性が高いため、根掘り葉掘りは聞けませんでした。何とか帰ってきたんよ。生前これだけ教えてくれました。
2011-12-08 23:50:52![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 私の祖父は七年前に他界しました。祖父はテレビでやる戦争の特集をじっと見つめ、語ることは一度もなかった。ただ一度だけ祖父の背中を流した時、背中に刃物で斜めにバッサリと切られた傷が残っていた。他界した後タンスの奥から軍服、ブーツなど出てきた。誰も知らなかった。
2011-12-08 23:50:54![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 小生の亡母、昭和8年生まれ。母方一家は官吏で釜山から東京へ出戻り。開戦の報をラジオで聞いた祖父は「とうとう始まったか」と呟いたと。負け戦を覚悟していた筈だと。当の亡母は疎開先で見た甲府大空襲で真っ赤に染まった空の色が忘れられなかったそうです。
2011-12-08 23:51:57![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki うちのじーちゃんは元日銀総裁の速水優と二人で大砲を担いでいたそうです。彼から一文字もらい、優樹という名前になりました。そして運命のイタズラか、為替取引が今の僕の仕事です
2011-12-08 23:53:51![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 私の祖父は玉砕の地として有名なフィリピンのレイテ島に行き、数少ない生き残りとして帰国しました。今年95歳で亡くなりましたが、元気なうちはずっと、遠い国で戦死した仲間のことを思い、戦争関連のテレビなどを見た夜はうなされていました。
2011-12-08 23:55:27![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 70年前の12/8、祖母はそれぞれ赤ちゃんが生まれて数カ月ばかりで忙しかったろう。祖父は家にいなかったかも。父方は海軍、母方は満州に。そしてその赤ちゃんたちは、20数年後に私の両親になった。
2011-12-08 23:55:47![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 父方の祖父母は他界していたので伯叔祖父の話。終戦間際、兵庫の田舎であったが機銃掃射が頻繁に行われていたとのこと。母方の祖父は呉工廠で生まれ、30歳過ぎで招集により一次中国に。負傷して日本に帰国してから終戦。もう少し話を聞きたかった。どちらも小学生のとき他界
2011-12-08 23:56:23![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 介護の仕事が長いので、戦争の話はよく聞きました。ただ開戦時の話はほとんど無く、戦時中か終戦間近の話が中心でした。特攻隊で出征する前日に終戦を迎えた方の話が印象的です。死ねなかったことを後悔してました。思い出すとグッときます。
2011-12-08 23:58:14![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 祖父母が満州から引き揚げてくる際、祖母は丸刈りにしていました。八路軍がやりたい放題だったので身を守るためしかたなかったそう。97歳になりますが、当時のことは語ってくれません。「戦争の真実を伝える」なんて軽々しく言ってる輩が空虚なのは祖母を見ると分かります。
2011-12-08 23:59:54![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 祖父はパイロットに憧れて兵隊に志願しました。どうしても受かりたかったので、重力テストのときには頭に血が上らないようにベルトをきつく締めたと楽しげに話していました。国のために戦うといった一般的なイメージと違ったので驚きました。
2011-12-09 00:03:29![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 祖父はセレベスで薬剤師として働いていました。父は母より4歳年上なので記憶があったかと思いますが他界してしまいました。もっと聞いておけばと悔やまれます。
2011-12-09 00:06:25![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 祖父は軍医として南方に出征して37歳の若さで戦病死したそうです。命日は昭和20年4月29日です。遺骨を乗せた船は爆撃を受けて何も残っていません。
2011-12-09 00:06:51![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
開戦時父は14歳でその後予科練へ。身体小さく訓練が大変で苦労した。青島から飛び立つ直前に終戦。実は直接父から聞いた話ではなく、15年前父亡くなった後、父の戦友たちと年賀状のやり取りを続け、そこで教えて貰った。自分のことを老鷲と表現、一度会って話聞きたい。@inosenaoki
2011-12-09 00:07:07![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 両親の小学校の先生は戦争中特攻隊員として知覧におられ、多くのご友人を見送り、今日は自分というまさに8月15日に終戦。先生を訪ね、知覧でお茶畑を見てきたと「知...」と言いかけた瞬間、顔をそむけられました。その言葉もきけない、どうしてもだめなんだそうです。
2011-12-09 00:08:11![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@inosenaoki 93歳になる祖母に少しずつ当時の話を聞いています。弟二人を戦死で亡くしたのが辛く語るに語れない様子。ある日戦地から弟が送ってきた手紙を見せてくれました。母も叔父も初めて見たと。50年我が子にも見せず、ひっそりとしまっていた手紙をみて何も言えなくなりました。
2011-12-09 00:08:33