12月8日 日米開戦の日、身近な人(祖父母)から聞いたエピソード集

12月8日 日米開戦の日、身近な人(祖父母)から聞いたエピソード集 猪瀬直樹氏 @inosenaoki RTまとめ。 すいません、かなり適当にまとめています。ヌケもあるかもしれません。 皆さんの良心を信じて編集可能にします。 間違い等々ありましたら、修正をお願いします。 続きを読む
73
前へ 1 ・・ 3 4 6 次へ
@velvetchan3

@inosenaoki 遠縁のおじいさんは若い頃、海外から金属精錬の技術を持ち帰り、そのために戦地へ行けなかったと今でも残念に思っているそうです。何度も繰り返されるその話は、私も涙が出ます。

2011-12-09 00:08:54
ヒロシちゃん@前厄幹事(9勝2敗) @hi_6_shi

@inosenaoki 97歳の祖母は未だに戦死した弟や友達の夢を見て、涙を流しながら魘されてします。65年以上も経っているのに…。

2011-12-09 00:09:29
テキトーなおっさんは可憐な少女♀ @starmen07

@inosenaoki 剣道の先生。シベリア抑留されてたそうです。友達の耳が凍って落ちた、足の指が取れた、食料なんてそう呼べるものは貰ってない、などと淡々とお話されます。それでも先生は、いつか絶対に日本で剣道が出来ると信じて労働されてたそうです。

2011-12-09 00:10:05
伊達まちこ @datemachiko8355

@inosenaoki 急に思い出しました。私が小さい頃、親戚の集まりの席で、お酒が入るとほうきを手に「黒田節」を歌いながら舞う人がいました。迫力が凄くて、私はただ怖い人と思っていました。その人が特攻隊の生き残りと知ったのは、大分あとでした。忘れてはいけないことでした。

2011-12-09 00:11:14
mildkimitake @mildkimitake

@inosenaoki 母方の祖父は35歳で海軍の輸送船の一番底で働いていて、東シナ海に沈みました。3人の子供の事を「頼む、頼む」とまさに後ろ髪を引かれる想いだったと聞いています。その祖父の子供達は上が5歳、3人目はまだ乳飲み子でした。そしてみんな亡くなった祖父の倍生きています。

2011-12-09 00:11:57
bigt @BIGTBIGT

@inosenaoki 英国のデイセンターでボランティアしていた頃、仲の良かった英国爺さんからよく戦争話を聞いた。彼は豪で日本軍と交戦していたとの事。歴史好きを自認してたが、豪本土への空爆の事実を知らなかったので大変驚いた。不謹慎かもだけど、相手国当事者の戦争話は興味深かった。

2011-12-09 00:12:25
Mononov @Mono_Nov

@inosenaoki 子供の頃に祖父母に戦争の事を聞いても話してくれる事は無かったのですが、傷痍軍人になった祖父が、体の一部を失う怪我ではなかったため、終戦後に戦争での怪我は嘘だろ等、色々言われていたという話を最近になって知りました。

2011-12-09 00:12:34
ヨーダ @Yoda800

@inosenaoki 母はこの日以降、学徒動員で軍需工場で働き『馬鹿な戦争始めやがって』と言ってた祖父は学校へ文句を言いに。当時の父兄のなかには『是非とも家の娘に旋盤やらせて下さい。お国の為に....』と言うひとも。言論統制化でも想いは色々だなと。

2011-12-09 00:13:04
@19420806

@inosenaoki 8日の話は聞けませんでしたが。大正元年生まれの父は出征させたくない祖母の計らいで九州飛行機で働いてました。戦後談で、紫電改作ったとか出鱈目言っていて、いい加減だな~と思いました。駆逐艦乗り(兵)だった叔父は、海軍の飯は良かったと松岡洋右の悪口ばかりでした。

2011-12-09 00:13:05
金井恵一 @kanai_keiichi

@inosenaoki 祖父は真珠湾奇襲の第一次攻撃隊員で、その後沖縄で戦死したそうです。自分以外の人の為に死んで行った祖父を誇りに思います。当時を知る祖母も昨年他界しました。この事は私の子供達にも語り継いで行きたいです。

2011-12-09 00:13:30
ゆういちろう @yu1ro1975

@inosenaoki 10年前に亡くなった祖父はシベリア抑留を経験。小さなパンをみんなで分けて食べたと。絵が得意な人だったけど戦車の絵をお願いしても決して描いてくれなかった。一緒にお風呂入った時、祖父の胸に残る大きな傷が今でも忘れられない。

2011-12-09 00:15:03
ヒロシちゃん@前厄幹事(9勝2敗) @hi_6_shi

@inosenaoki 祖父は職業軍人でした。士官学校を首席で卒業した話やシベリアでの抑留生活の話をいつも聞かされていました。しかし敗戦に関する話は一切してくれませんでした…。

2011-12-09 00:16:03
Tokehirito @Tokuhirito

@inosenaoki 同居していた祖父は先月91歳で亡くなりましたが、スキーで足を大怪我したため右足が不自由になり、徴兵されませんでした。私が幼少期の頃に毎日のように、戦時中の爆弾が降ってきた当時の様子を話してくれました。

2011-12-09 00:16:16
cioccemaki @cioccemaki

@inosenaoki 満州にいた祖父は木の枝でカモフラージュした馬に乗っていた話をしてくれたそうです。母は戦後祖父に毎晩戦争の話を聞かされていましたが、その最後はいつも泣きながら「もう戦争は嫌だ」だったそうです。

2011-12-09 00:18:26
はなまる @hanamarue

@inosenaoki 母の実家の納戸には、日本人が中国で行ってきた虐殺の記録が写真になって保管されていたと聞きました。母が小さいころ祖父から見せられ、とても息苦しく感じた記憶があるそうです。首の無くなった人間が大きな穴の前に一列に座らされていたと。

2011-12-09 00:19:23
Marianne kidy @marieanne_kidy

@inosenaoki 三年前他界した父は昭和12年生まれ、満洲に居た頃弟六人と一緒に写した写真を私が成人してから見せてくれました。長男であった父は一人後から帰国、日本に帰る事が出来るとは信じられない侭引き揚げ船に乗ったそうです、幼い頃浴室で一緒に軍歌を唄ったのが忘れられません。

2011-12-09 00:19:27
dera35 @dera35

@inosenaoki 十年以上前に亡くなった祖父はガダルカナルの生き残りで、体に弾が三発残ったままだ、と一緒に風呂にはいるとよく話してくれました。奥の座敷でほぼ毎日写経してた姿を思い出します。

2011-12-09 00:20:15
シャオ @xiao_pang

@inosenaoki 私の祖母から亡くなった祖父の話を聞いたのですが、祖父は戦争中、厚木基地で航空部隊の料理担当をしていたそうです。その祖父も特攻を命じられるか命じられないかの瀬戸際の所で、終戦となったそうです。祖母は、料理を作るときは必ずと言って良いほど軍歌を口にしています。

2011-12-09 00:21:07
Shoichi Tanaka @Hawkeye0303

@inosenaoki 母方の祖母の末弟。海軍で通信士官として空母大鳳に乗務。マリアナ沖海戦で戦没。最後の出撃前、祖母と母・叔父と面談。「日本は勝てない。」叔父に対し「家を守ってくれ」と

2011-12-09 00:23:20
村田BENZO @benzomitarai

@inosenaoki 祖父は教師で、県の満蒙開拓少年団の引率者として満州に派遣されていたそうです。恐らく現地で日米開戦の報を聞いたと思われます。その後身体を壊して京城に転任し、そこで終戦を迎えました。

2011-12-09 00:23:27
Yoshi-石川 @yishi3232

@inosenaoki もう祖父が亡くなって二十年近くたちます。私が多感な高校生のとき、軍隊手帳を見せてくれて、手帳の最後には天皇の勅語があり、それを暗記したと自慢げに言っていたのを思い出します。

2011-12-09 00:24:40
@19420806

@19420806 @inosenaoki すみません、大正元年ではなく15年。昭和元年になる年でした。母は福岡郊外で、福岡大空襲の不発焼夷弾をおもしろ半分で触ってた同級生の男の子の片手が吹き飛んだというエピソードをさらっと話をしました。悲壮感がなく、体験者は強いと感じました。

2011-12-09 00:25:00
𝕆ᵥₑᵣ ₜₕₑ ℝₐᵢₙ𝕓ₒ𝕨 🌈 @_onaclearday

@inosenaoki 祖父は群馬出身ですが、開戦時は鈴鹿の軍施設でトラックや重機の運転手をしていたそうです。そこから同じ年頃の子達が特攻に行くのを見送っていたそうです。終戦の日は割りと皆覚えてますが、開戦はぼんやりですね。

2011-12-09 00:26:51
倉本琢|創造系不動産コンサル @tkkrmt

祖父の弟は二十歳そこそこでサイパンで戦死しました。遺骨はありません。父母への手紙が残っていたと思います。体が弱く召集されなかった祖父は複雑な思いを抱えて生きていたと思います。今の陛下がサイパンに行ってくれたことは万感胸に迫るものがありましたね。@inosenaoki

2011-12-09 00:27:26
momo23 @karenmomo23

@inosenaoki 父に聞いても、軍医で南支に行った。向こうの川は茶色いんだ、という事しか語ってくれませんでした。多分思い出したくなかったのだと思います。そしてそれを娘の私には話したくなかったのだと。父はとうに他界しましたがもっと色々聞きたかったなと残念です。

2011-12-09 00:30:04
前へ 1 ・・ 3 4 6 次へ