- dousei_skhs
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【コーヒーの日+紅茶の日+遠距離恋愛の日】 冷えた鍵を使って、冷えた家に入る。足を踏み入れる瞬間「ただいま」が口をつくのは癖だから仕方がない。明かりの灯らないそこには誰もいないというのに。 そう、誰もいない。 光忠と会わなくなって、早くも十日が経とうとしていた。
2016-12-21 22:30:34別に家出をしたとかそういうのじゃない。ただの出張。ままあることだ。光忠じゃなくて俺が出張になったときもあった。そう、十日くらい顔を合わせないことなんてこれまでもあったし、仕事なのだからとやかく言う気もない。二人ともいい年だ。四六時中一緒にいなければ気が済まないなんてこともない。
2016-12-21 22:32:28朝の飲み物。きっかけはそんなくだらないことだった。 あの朝、俺はいつもの習慣でコーヒーを飲もうとした。しかし光忠は、ちょうどそのとき体調を崩しかけていた俺の身体を気遣って紅茶――正確にはハーブティー? になるのだろうか、何にせよコーヒーでないもの――を淹れてくれようとしたのだ。
2016-12-21 22:35:03いつもなら、素直に淹れてもらったものを飲んでいたはずだった。だが体調の悪さと寝不足で不機嫌だったそのときの俺は、それは嫌だと子どものようにだだをこねたんだと思う。……思う、というのは、はっきりとは覚えていないからだ。正直、恥ずかしくて思い出したくもない。
2016-12-21 22:37:27おかしくなったのはここからだ。光忠も、そのときはいつもと違った。俺がくだらないだだをこねようが上手くいなすはずのあいつも、あの日は少し寝坊をしていて、家を出る時間が迫っていた。……そんな状態でも俺を気遣ってくれていたのに、反抗的な態度が返ってくればそりゃあ腹も立てるだろう。
2016-12-21 22:38:37「好きにしたらいいよ」 光忠はそう言った。 それしか、言わなかった。 出していたポットを仕舞う音、いつもの黒いキャリーケースを運ぶ音、苛立った足の音。それらをぼやけた聴覚で追っていた俺は、玄関が閉まる音を聞いたとき、初めて頬を張られたように目を覚ました。
2016-12-21 22:39:33――俺は、なにを言ったんだ? 今までのやりとりを反芻して、背筋が冷たくなった。慌ててリビングを出たが当然もう遅く、そこは朝の光の中でしんと静まり返っていた。 俺は光忠を怒らせたのだ。 よりによって、これから何日も会えなくなるというその日に。
2016-12-21 22:40:20「……はあ」 部屋着に着替えてキッチンに入ると、そこは朝と変わりなく、綺麗すぎるほどに綺麗だった。……ここ数日、誰も料理をしていないからだ。
2016-12-21 22:41:13これでも自炊生活が長い俺は、数日はひとりでもちゃんと食事を作って食べていた。だが数日前からスイッチが切れたようにやる気をなくしてしまい、出来合いのものを買ってくるか、食欲がなければ飲み物やゼリー飲料でカロリーを取っていた。光忠と出会う前のような、食事に重きを置かない生活だ。
2016-12-21 22:41:52今日もまるで食欲がない。どうしたものかと思いながら、俺は食器棚に目をやった。そこには、ポットといつものマグカップ――そしてあの朝、光忠が淹れてくれようとしたハーブティーの缶がある。俺はふらふらと棚に近づき、普段あまり使わないポットを手に取った。
2016-12-21 22:43:01ケトルで湯を沸かし、適当にハーブティーを淹れる。きっと正しくはもっと湯を冷ましたりカップを温めたりするのかもしれないが、今はどうでもよかった。冷えたキッチンで、温かく色のついた湯を胃に入れる。味なんて適当についていればそれでいい。
2016-12-21 22:44:03「……」 ひとくち、ふたくち。ゆっくり飲んでいると、身体がぽかぽか温かくなってきた。なるほど。これは朝に、それも寝起きに飲むのに最適かもしれないな。 「……ふ」 光忠は俺のことを考えてくれていたのだ。家を出るまでそんなに時間もなかったのに、それでも、俺のことを考えて――
2016-12-21 22:46:05「……、っ」 あの日の自分の振る舞いは、とんでもなく幼稚で情けないものだった。光忠が俺に何かを無理強いしてきたことはないし、いつだって俺の体調を考えてくれていた。飲み物くらい、勧めてくれたものを素直に飲めばよかったのに。それなのに、俺は……俺は。
2016-12-21 22:48:03謝ろうと思った。何度も、何度も。でも自分から連絡を取ることは出来なかった。忙しいだろうし、こんな子どもみたいな理由で時間を割かせるわけにはいかないとも。
2016-12-21 22:49:04――嘘だ。それは言い訳だ。 本当は怖かった。 俺から連絡を取って、もしも、もしも拒否されたら。そう考えると電話はおろか、簡単なメッセージを送ることすら出来なかった。
2016-12-21 22:49:35「……、う、っ……」 いい年をして、こんな情けない理由で思い知ることになるなんて。俺はどこまでも光忠に甘えているのだ。 「光忠……」 思わず名前を呼ぶと、マグカップの中に涙が落ちた。
2016-12-21 22:50:34「なんだい?」 「――は……?」 静かなキッチンに突然響いた声。 驚いて顔を上げると、そこには今まさに俺が名前を呼んだ人物――つまり、光忠が立っていた。
2016-12-21 22:53:34どうしてここにいるんだ。出張は? 帰ってくるのは今日じゃなかったはずだろう。いや、それより他に言いたいことは山ほどあったはずなのに、あまりに突然すぎてまともに言葉が出て来なかった。べそをかいたまま第一声を探す俺は、さぞ間の抜けた顔をしていたことだろう。
2016-12-21 22:55:17「あ、……」 「ごめんね。驚かそうと思って静かに入って来たんだけど、……長谷部くん?」 「……みつ、」 ああ。光忠、光忠、光忠だ。 久しぶりに聞いた柔らかい声に、俺の中で今度こそ何かがぷつっと切れた。
2016-12-21 22:56:07「ひっ、う」 「……え? えっ、泣いてる?」 「な、泣いてな、」 「なんでそんな嘘つくの」 安心していろいろ緩んだ俺は、たまらずしゃくりあげてしまった。そこでようやく光忠は、俺がみっともなく泣いていることを理解したらしい。手に持っていたコートを床に落とし、足早に近づいてきた。
2016-12-21 22:57:33「長谷部くん、ね、どうしたの」 「うぅ……っ」 「どっか痛い?」 「ちがう、違う……」 光忠が少し屈んで俺の顔を覗き込む。滲んだ視界に、心配そうな琥珀色が映り込む。光忠がまとってきた外の匂いと、いつもの香水が頬を撫でた。
2016-12-21 22:58:30「みつただ、……」 「うん?」 「…………」 どうした。俺には言わなければならないことがあったはずだ。あの朝くだらないワガママを言って呆れただろう。謝らないまま今日まで来てしまった。怖くて連絡が出来なかった。……ほら、たくさんある。言わなければ。そうだ、まずは――
2016-12-21 22:59:32「お前」 「うん?」 「おまえのっ、せいだ!」 「えっ」 「おれ、おれがあんなこと言っ、たから、おまえが怒ったせいで」 「僕が?」 「だめだってわかって、でも怖いから、おれの、おまえのっ」
2016-12-21 23:00:13……俺は何を言っているんだ? あくまでも冷静に、まずは光忠にこれまでの経緯と礼を欠いたことを謝るつもりだった。それなのに、何かが切れた俺の口からは、言いたいことが全て八つ当たりとなって溢れて止まらなくなった。ついでに涙も止まらないものだから、横隔膜に癖がつきそうになっている。
2016-12-21 23:01:27