ざっくりミュンヘン競馬場の歴史(WW2まで)

備忘録用にまとめました
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だいたいでええねん @k54108236

29年30年はそれぞれ8日9日間の競馬開催が行われ、32人が各38000マルクを保証の為のファンドとして集め、不況を乗り切ろうとしたが、それでも31年の初頭の競馬雑誌では、24年から続く危機にミュンヘン競馬の存続はもはや風前の灯で閉鎖は免れないだろうと書かれていた。

2017-02-16 18:50:26
だいたいでええねん @k54108236

今までミュンヘンの厩舎にいた調教師も離れていき、30年に90頭在籍していたのが、31年には14頭になったと。

2017-02-16 18:53:35
だいたいでええねん @k54108236

31年のツーフトレネンの賞金はたったの4000マルクだったそうな。記事によるとその年の続く開催は行われず、32年も不開催に読めるが、レンカレンダーを持ってないので確証はない(^^;

2017-02-16 19:56:52
だいたいでええねん @k54108236

33年は小規模の二日開催が行われたとあり、その後もうダメポ・・・と競馬会は政権を握ったばかりのヒットラーの旧友にしてナチ党員でミュンヘンに太いパイプを持つクリスティアン・ヴェーバーに泣きついた、と。ここからが新しい章の幕開けやね。

2017-02-16 20:00:21
だいたいでええねん @k54108236

ホッペガルテンは別として、NRW地域は競馬会の為の数が多いから助け合えるってところがあるんかな?ミュンヘン・リームは頭数が減ったら頭数を補充出来ないという感じかな。

2017-02-16 20:21:23
だいたいでええねん @k54108236

あと20年位に他地域から遠征してくる馬に対しての運送に関しての保険をかけるという法律ができて、内容は書かれてないが、これもミュンヘン競馬会の負担になったと。当時多くの馬が来たのはいいが、来れば来るだけ支出も増えたらしい。

2017-02-16 20:26:30
だいたいでええねん @k54108236

24年のハイパーインフレを境に会員が減り、出走馬が減り、そうなれば客はトラーバー競馬に移る。売り上げは落ちの悪循環になったんだね。トラーバーバイエルン頭数を集めやすいというのが面白い。

2017-02-16 20:29:49
だいたいでええねん @k54108236

blog.shibashuji.com/s/article/3233… さてクリスティアン・ヴェーバーだが、あまり芝御大の説明に付け加えることは無い。しかし古参の小物ではあるもののナチスの首都と呼ばれたミュンヘンで市長やら内務大臣を動かし、ミュンヘン競馬会の債権者の権利を

2017-02-17 05:29:15
だいたいでええねん @k54108236

一声で無効にできる実力はナチスの暴力が背後にあってのもので、オレのような極右が強い地方に住んでいるものは、その規模が当時とは比べものにならないとはいえ、その権力がその地域においてはどのように機能しうるかと想像すると決して政治的な小物だとは言えない。暴力が効果的な状況というのがある

2017-02-17 05:44:24
だいたいでええねん @k54108236

勿論、オレが話しているのはこの場合、ミュンヘン市においてのことで、今はミュンヘン競馬の話をしているので、ヴェーバーが中央政府への影響というのは別の話で、そのレベルでは芝御大の言う通りで、ヴェーバー本人も「我が家」が豊かになればいいと、終戦までの野心はそこまでだったと思う。

2017-02-17 05:49:05
だいたいでええねん @k54108236

それは兎も角、借金を帳消しにし、多くの企業からの「寄付」を集め、公の資金としてミュンヘン市から44年までの期間に120万マルクを引き出すことに成功する。そして34年の5月に新生ミュンヘン・リーム競馬会は初開催を行った。そしてその年の八月に第一回ブラウネス・バント大賞を開催し、

2017-02-17 06:15:57
だいたいでええねん @k54108236

36年にはベルリンオリンピックの開催の年で、ヴェーバーも社台法人ダス・ブラウネ・バント・フォン・ドイッチュラントを設立。競馬場には多くの欧州の貴族が訪れ、勿論ドイツの政界からも多くの来客があった。ヒットラーは現れなかったが、1938年7月31日の

2017-02-17 06:57:14
だいたいでええねん @k54108236

バイロイト音楽祭の公演を取り止めさせた。これはヴェーバーの望みでダス・ブラウネ・バンド大賞と日程が重なるからだ。競馬開催の最終日の夜にはニュンフェンブルク城の公園で盛大なショーが行われ、2500人の仮想者、700頭の馬、200人の演奏者が出演。とりわけ

2017-02-17 07:12:00
だいたいでええねん @k54108236

スキャンダラスだったのは、ドイツ女子同盟(BDM Maedels)が裸や金メッキをほどこして走り回っていたことで、これには呆れ返るものも多かったという。この饗宴は「アマゾネスの夜」と呼ばれた。

2017-02-17 07:19:01
だいたいでええねん @k54108236

そして40年の40年のブラウネス・バント。招待されたシュヴァルツゴールトだが、ヴェーバーはレース前にこの牝馬を売るように脅した。そしてシュレンダーハンの牧場主、ヴァルデマール・フォン・オッペンハイマーは脅迫に屈せず断った。記事によるとヴェーバーは

2017-02-18 05:23:36
だいたいでええねん @k54108236

シュレンダーハン本によると、その後シュヴァルツゴールトは厩舎を親衛隊髑髏部隊に囲まれ、レース終了まで誰も厩舎に近付くことができなかった。ヴェーバーと親密な関係であった大物のラマースが後ろで手を引いたのだろうと書かれてあるが、どうなんだろうね。

2017-02-18 05:41:13
だいたいでええねん @k54108236

競馬開催を仕切る一方、私有地拡大も熱心に行った。125ヘクタールのイザーラント牧場群とでも呼ぶのかな。シュタルンベルク湖沿いのロイトシュテーテン、ブッフホーフ、ハイマートハウゼン、プラネークを購入または賃借した。既出のシュレンダーハン本によると反対する馬主はダッハウ行きも、と。

2017-02-18 05:54:14
だいたいでええねん @k54108236

そして1942年。リーム競馬場で22日、オクトーバーフェストの会場で有名なテレージエンヴィーゼで28日、計50日の競馬開催が行われた。しかしサラブレッドの競馬とトラーバーの2:1ということ。44年開催が最後で45年ヴェーバーは米国軍に捕えられ、ウルムに行く間にに交通事故で死亡。

2017-02-18 08:19:54
だいたいでええねん @k54108236

端折りましたけど、44年はテレジエンヴィーゼは中止で、リーム開催が27日、後半16開催はトータルウォーに考慮して、馬券発売がなし。貨物を節約の為、8月1日からは馬運搬はベルリン・ミュンヘン間に限定。こう見ると最後までヴェーバーを優遇されてるように見えるんですよね。

2017-02-18 11:24:57
だいたいでええねん @k54108236

不況によってミュンヘン競馬会が潰れる寸前にナチスが台頭し、集金の才能に長けたヴェーバーが一気にミュンヘン競馬を高みに上げた。勿論競馬会の中には彼を嫌った者もいただろうし、ダッハウ送りやなんやもあっただろうが、彼なしでは解散必至だったわけだからね。

2017-02-18 08:56:34