おんな城主直虎 第10回「走れ竜宮小僧」簡易まとめ

瀬名のこれからがどう考えてもつらい
7
アリノリ @a_ri_no_ri

松平元康(徳川家康)は、書状の書き方やその後のあれこれを見るに、今川義元(今川家)から大きな影響を受けていたのは、間違いないと思う。この段階で今川から離れる判断をしたのは、賭けに近い。松平家の当主として今川配下のまま終わるか、大名松平家の再興に賭けるか。先ず、最初の転換点だった。

2017-03-12 20:50:53
アリノリ @a_ri_no_ri

元康は自身が「人質」で、且つ織田に奪われたとき、今川をとった父親に見捨てられた。「人質」の扱いについては、元康当人がよく知っている。今川においては、今川の親族である嫁を世話されているが、あれは松平の家臣化でもある。今回、元康視点がほぼ「ない」からdisりの対象になりやすいな。

2017-03-12 20:55:00
アリノリ @a_ri_no_ri

何だか、忘れ去られているみたいだけど、松平元康自身が今川家の「人質」なんですよ。#おんな城主直虎

2017-03-12 20:56:55
morningscones (東大生候補) @morningscones

@a_ri_no_ri 雪斎禅師の活躍をすっ飛ばしたせいか、家康本人も人質交換で戻って来ているのも忘れられてますねえ。

2017-03-12 21:03:33
アリノリ @a_ri_no_ri

@morningscones 目の前の「かわいそう」に気を取られるのは脚本の上手さでもありますが…。

2017-03-12 21:05:00
アリノリ @a_ri_no_ri

あと、これも忘れられてると思うけど、松平元康はあの時点でまだ実年齢18歳だったりするんだ。#おんな城主直虎

2017-03-12 21:14:12
とうり @tou_ri

徳川クラスタじゃない人にちょっとだけ説明しとくと、家康自身幼少時に今川に行くところ織田に奪われたあと、織田方の城を落として確保した人質との交換で戻ったという経験をしています ので、「人質を取り戻すにはどっかの城を落として交換するのが早い」という発想に至った可能性もあります

2017-03-12 20:50:05
とうり @tou_ri

ただ織田に奪われたあと父の広忠からは「敵に利することになるならば捨てる(意訳)」というようなことをいわれたという逸話もあるので、「人質とはそういうものだ」という頭があった可能性もありますな 今回はどちらでいくのかはわからないけど、家康は前者でも瀬名が後者だと思いこむ展開もあるよぬ

2017-03-12 20:55:09
とうり @tou_ri

まあどっちにしろきついんどすわ!!!!!康瀬名きつくなかったことがないんですわ!!!!!!やる康は新しいお瀬名ちゃんだったけどそれはそれできつかったからな!!!!!!!!

2017-03-12 21:03:43
とうり @tou_ri

家康は広忠から「見捨てられて」からも約2年、織田で生き延びている その後今川で十数年人質生活をしている ので、今川家の人質への甘さを過信してた部分がないとはいえないと思う 氏真の代にかわったことの誤算と過信による判断ミスがなかったとは言えんのよな

2017-03-12 21:08:59
とうり @tou_ri

あと、先に処刑された人質は譜代家臣の家族なので、彼らの手前「人質の命が惜しい」とは言えなかったんじゃないかなとも思う…タイミング的に三河一向一揆鎮圧直後じゃないっけか確か

2017-03-12 21:10:35
とうり @tou_ri

とくに岡崎衆からすれば瀬名ちゃんは憎い今川の縁者なわけで、「いっそ捨てろ」と言われてもおかしくないし、そこでゴニョゴニョいうと子供ができたタイミングで消されかねん ほんとあそこは一番怖いのは外敵じゃなくて家臣だからな…

2017-03-12 21:14:18
とうり @tou_ri

岡崎衆の反今川感情ってほんとけっこう馬鹿にならんのよ… お瀬名ちゃんこれからずっとそれに晒され続けることになるからそれもきつい

2017-03-12 21:17:25
とうり @tou_ri

お瀬名ちゃんのしんどいところって「どこにも属せない」ことなんだよね 今川では松平の、松平では今川の女として扱われて、なににもなれない ただ信康の母というところに縋るしかない女になってしまう

2017-03-12 21:21:12
酔鏡仙@ @suikyosen

今川氏真が松平元康(徳川家康)の背信・離反に迅速な対応取れなかったのは、勿論家中混乱や井伊はじめ遠江国衆の不穏もあるけど、何より桶狭間翌年に発生した長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻及び小田原城包囲によって同盟相手の北条・武田ともに動けず、外交的に詰んでた事が大きい #おんな城主直虎

2017-03-12 20:54:49
酔鏡仙@ @suikyosen

舅である北条氏康からの援軍を後詰として駿河を固め、武田信玄と機微を合わせて不穏な遠江・東三河国衆を蹴散らすか懐柔し、松平元康に東海道と奥三河からの二正面作戦を強いて叩き潰す、というのが1561年年明け時点における今川氏真の戦略構想ではあったと思う。 #おんな城主直虎

2017-03-12 22:04:38
酔鏡仙@ @suikyosen

ただ長尾景虎(上杉謙信)の南進が余りにも早すぎた。1月中には上野から武蔵へ侵攻・制圧。2月には遂に相模侵攻を開始してサクッと鎌倉を制圧、3月には10万余の大軍で氏康が籠もる小田原城を完全包囲するという電光石火の早業。氏真が体勢立て直して遠江・三河攻めを行うには時間が無さすぎた。

2017-03-12 22:09:01
酔鏡仙@ @suikyosen

そして武田晴信(信玄)も景虎不在の隙を狙い、所詮は他家の戦である今川の松平攻めよりも自家の課題である信濃北部制圧を優先し、南の三河とは真反対の北上作戦を開始。これが危急を知って関東より帰還した景虎との第四次川中島合戦に繋がり、武田の援護も期待できない。総じて氏真には運がなかった

2017-03-12 22:14:00
酔鏡仙@ @suikyosen

第四次川中島合戦で武田軍が晴信の実弟武田信繁(典厩)をはじめ侍大将クラスの重臣多数戦死という大打撃を受け、対越後長尾(上杉)との抗争に消極化したことも、今川氏真にとっては不運だった。北信制圧に事実上失敗した以上、武田にとっては埋め合わせで何処か実入りの良い土地を取らねばならない。

2017-03-12 22:22:40
酔鏡仙@ @suikyosen

で、本国甲斐の目と鼻の先に飛びきっり実入りの良い、しかも桶狭間と三河松平の離反によって消耗してる今川家がいた。勿論同盟を組んだ間柄の縁戚ではあるが、実際に同盟交わした今川義元はもはや亡く、更に同時並行で進めていた西上野侵略も長野業正の死去により進捗し、武田の勢いは最高潮だった。

2017-03-12 22:27:36
酔鏡仙@ @suikyosen

で、武田晴信は外交方針を大幅に転換。まず美濃斎藤家を圧迫していた織田信長と結び、信長と同盟している徳川家康と誼を通じ、そして今川家と繋がり深い嫡男義信を切り捨てて四男勝頼(正室は信長養女)を新たな嫡男とし、万を持して1568年12月、甲相駿三国同盟を破棄して駿河侵攻へ踏み切った。

2017-03-12 22:33:11
酔鏡仙@ @suikyosen

これが大名としての今川氏真にとって致命傷となり、妻子を連れてなんとか朝比奈泰朝が守る掛川城へと落ち延びるも、西からは徳川、東からは武田が攻勢をかけており、最期を覚悟しただろう。北条は武田からの協力を拒否し今川援護のため駿河に出兵するが時既に遅く、氏真夫婦を助けるには至らなかった

2017-03-12 22:39:18
酔鏡仙@ @suikyosen

以上が、1560年5月の桶狭間合戦に端を発した東海・甲信越・関東の政治情勢の大変化のあらまし。まあ結論すると「きっかけ作ったのは信長と家康だけど、後の顛末はだいたい上杉謙信と武田信玄のせい」ってなるわけだが…… #あいつらやっぱり災害以外の何物でもない

2017-03-12 22:43:56
酔鏡仙@ @suikyosen

松平元康(徳川家康)が今川からの離反・独立を決意したのは何時か?という疑問は諸説あるが、個人的には桶狭間の敗報を聞き大高城を脱出、大樹寺経由で岡崎城に入った、この時点で桶狭間で誰が戦死したかの詳報は次々入ってきただろう。で、その中には元康にとってある意味厄介な松平一族も多数いた。

2017-03-12 23:01:58