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【文豪とアルケミスト】文豪ゆかりの地、横浜を訪ねる【文学散歩・舞台探訪】

2017年3月30日・31日、横浜市において、「文豪とアルケミスト」に登場する文豪ゆかりの場所を巡った時の写真です。 補足説明なしバージョン → https://twitter.com/i/moments/853257313850871809
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 この美術品ですが、芥川龍之介の書簡の中では「瑞魔天(芥川龍之介「書簡287」『芥川龍之介全集(18)』岩波書店 1997年 85, 381頁)」と表記されています。ところが、三溪が収集した美術品の中に「瑞魔天」という作品はありません。さらに言えばそもそも「美術品」とも記されていませんし、果たしてどんなものなのかも読み取れません。
 とはいえ、これに近そうなものを探すと、かつて三溪の手元にあり、現在はMIHO MUSEUMに所蔵されている平安時代の仏画「閻魔天」があります。二次文献のいくつかは、芥川は「閻魔天」を見たと読み替えています。
cf. 新井恵美子『原三渓物語』神奈川新聞社 2003年 120〜121, 212〜214頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【三之谷北公園】 三溪園から徒歩7、8分の、おおむねこのあたりには「本牧花屋敷」という遊園地があったとか。北原白秋と松下俊子(人妻、当時の夫とは別居中)がほんの一時暮らした場所が、その遊園地の近くの家でした。 pic.twitter.com/uf8HN0IdLO

2017-04-15 00:41:23
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 この当時の白秋についてはいささか補足説明が必要でしょう。
 1910年9月、北原白秋は東京府千駄ヶ谷町85番地に転居しました。この年、彼は25歳。前年『邪宗門』を刊行し、のちに『桐の花』を構成することになる詩をいくつも作り、詩人としての地位を固めつつあった頃でした。
 白秋の転居先の隣の家に住んでいたのは松下俊子(当時22歳)という既婚女性でした。俊子の夫・長平は国民新聞社に勤める記者でしたが、彼には愛人がおり、しかも俊子に同居を迫っていた為、俊子は心労で病気がちであったようです。こうした状況下で、白秋と俊子は恋に落ちることになります。
 1912年7月5日、白秋は松下長平から姦通罪で訴えられ、市ヶ谷の拘置所に拘留されてしまいました。これはスキャンダルとして大きく報道されてしまい、結局、松下長平に示談金を支払って保釈されたものの、俊子は行方知れずとなり、白秋は精神的に不安定になっていました。
 白秋は自殺まで考えていたようですが、思いとどまり、事件から半年後の1913年初頭、横浜に住んでいた俊子と再会することとなります。その年の4月に、病気がちだった俊子を下宿させ、一緒に住んだのがまさにこの本牧花屋敷近くだったのです。その後、同年5月に、白秋は俊子や自分の家族とともに神奈川県三崎町へ移住することになります。<完>

……

 その後の二人ですが、まず、1913年9月に長平と俊子の離婚が成立します。これでめでたしめでたし、本当の本当に<完>になればよかったのですが、そうなりませんでした。北原一家は三崎町での事業に失敗、また俊子の病気療養の為もあり、何度か転居をすることになります。そして1914年7月、夫婦喧嘩の末、俊子は実家に帰ってしまい、同年8月、白秋は「離別状」を書き、俊子と別れることとなりました。

cf. 「年譜」『白秋全集 別巻』岩波書店 1988年 490〜494頁; 鈴木一郎「北原白秋と松下俊子」『文学(29-2)』1961年 167〜175頁 三木卓『北原白秋』筑摩書房 2005年 124〜190頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【パークシティ本牧C棟付近】 バス通り沿いに歩くと、「パークシティ本牧」というマンションが見えてきます。谷崎潤一郎が1921年9月から翌年10月まで居を構えた、海岸近くの洋館「本牧宮原883番地」はだいたいこのあたりです。昔はここのあたりも海岸沿いだったのでしょうか…。 pic.twitter.com/MyQiDHUHx2

2017-04-15 00:45:00
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 谷崎がここに住んだことを示す史料としては、谷崎潤一郎「書簡四五」『谷崎潤一郎全集(25)』中央公論社 1983年 50〜51頁。また、『痴人の愛』の最終章は本牧のスイス人家族が住んでいた家が舞台です(『谷崎潤一郎全集(10)』中央公論社 1982年 298〜302頁)。それから、本牧を舞台にした戯曲に、「本牧夜話」『谷崎潤一郎全集(8)』中央公論社 1981年 365〜428頁
cf. 「年譜」『谷崎潤一郎全集(26)』中央公論社 1983年 314〜315頁; 小谷野敦『谷崎潤一郎伝』中央公論新社 2006年 143~148頁

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【山手①】 谷崎が住んだ本牧の家ですが、1922年8月の台風と津波で被害を受けてしまいました。谷崎は転居を決意し、「山手268番A」にあった洋館に引っ越します。ところが、1923年の関東大震災でこの家も失ってしまいました。その後、彼は京都へ転居し、横浜へは戻りませんでした。 pic.twitter.com/2oh7aztSBW

2017-04-15 00:49:17
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山手や横浜の印象を記したものとしては後述いたしました「港の人々」「洋食の話」のほか、「頭髮、帽子、耳飾り」『谷崎潤一郎全集(22)』中央公論社 1983年 127〜130頁、「わたしのやつてゐるダンス」『谷崎潤一郎全集(22)』中央公論社 1983年 145〜146頁。関東大震災に関わる史料としては、「手記」『谷崎潤一郎全集(22)』中央公論社 1983年 153〜155頁、「「九月一日」前後のこと」『谷崎潤一郎全集(22)』中央公論社 1983年 196〜219頁。あと、小説「アヹ・マリア」の中にも横浜の街が描写されています(『谷崎潤一郎全集(8)』中央公論社 1981年 531頁)
cf. 「年譜」『谷崎潤一郎全集(26)』中央公論社 1983年 315頁; 小谷野敦『谷崎潤一郎伝』中央公論新社 2006年 149~153頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

谷崎潤一郎の横浜時代はほんの2年、それも2回も自然災害で家を失うというものでした。それでも、谷崎は自身が住んだ洋館や、横浜の街に愛着を持ち続けていたようで、「あんなに住み心地のいい街はない」、「私は横浜を愛していた」と回想しています。

2017-04-15 00:50:13

 谷崎潤一郎「港の人々」『谷崎潤一郎全集(9)』中央公論社 1982年 447頁; 谷崎潤一郎「横濱のおもひで前書」『谷崎潤一郎全集(23)』中央公論社 1983年 76〜77頁
 関東大震災発生時の横浜市の被害と復興過程については、横浜市市史編纂係(編)『横浜市震災誌(全三巻)』横浜市市史編纂係 1926年、馬渕宣充「関東大震災直後の横浜」『地図情報(29-1)』2009年 16〜27頁。特に後者は、フルカラーの図版が多く、谷崎が震災1年前に住んでいた本牧のあたりの海岸線もよく分かります。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【神奈川近代文学館】 谷崎の山手の家から徒歩数分。神奈川近代文学館にやってまいりました。夏目漱石の書斎を復元したスペースや、神奈川ゆかりの作家に関わる品々の常設展示を行っています。わたくしが訪れた際は、正岡子規の特別展をやっていました。 pic.twitter.com/iQjN0aynzr

2017-04-15 00:52:20
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アザラシ提督 @yskmas_k_66

【港の見える丘公園】 横浜港を一望できるところ……にして、ノベルゲーム「青空の見える丘」や「ティンクル☆くるせいだーす」の舞台になった場所でもあります。 pic.twitter.com/nLOG8OUth3

2017-04-15 00:57:51
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アザラシ提督 @yskmas_k_66

【岩崎博物館】 1885年に作られた西洋式の劇場「ゲーテ座」の跡地には、岩崎博物館が建っています。ゲーテ座には芥川龍之介萩原朔太郎も観劇に来たことがあるようで、島崎藤村の『春』には"横浜で観た、西洋人が演じるハムレット"について語るシーンがあります。 pic.twitter.com/dS79QXJ3yM

2017-04-15 00:59:57
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芥川龍之介「Gaity座のサロメ」『芥川龍之介全集(12)』岩波書店 1996年 258~264頁
島崎藤村「春」『藤村全集(3)』筑摩書房 1967年 11頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【山手②】 山手を扱った文学作品には、芥川龍之介の「ピアノ」、有島武郎の「一房の葡萄」、中島敦の「かめれおん日記」があります。谷崎潤一郎の「痴人の愛」では主人公とその愛人は"山手の洋館"に少しの間住みましたし、江戸川乱歩の「虎の牙」は二十面相の洋館が山手にあるという設定でした。 pic.twitter.com/BqFiEEIKsv

2017-04-15 01:03:43
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・芥川龍之介「ピアノ」『芥川龍之介全集(12)』岩波書店 1996年 195~197頁
・江戸川乱歩「虎の牙」『江戸川乱歩全集(15)』光文社文庫 2004年 167〜344頁(特に、294頁)
・有島武郎「一房の葡萄」『有島武郎全集(6)』筑摩書房 1981年 120~127頁; cf. 阿毛久芳「有島武郎と東京・横浜・鎌倉」有島武郎研究会(編)『有島武郎と場所』右文書院 1996年 36〜38頁; 遠藤祐(編)『有島武郎(新潮日本文学アルバム9)』新潮社 1984年 10〜11頁
・谷崎潤一郎「痴人の愛」『谷崎潤一郎全集(10)』中央公論社 1982年 3〜302頁
・中島敦「かめれおん日記」『中島敦(ちくま日本文学012)』筑摩書房 2008年 317~361頁

谷崎潤一郎「痴人の愛」『谷崎潤一郎全集(10)』中央公論社 1982年 298頁
「あたし、西洋人のゐる街で、西洋館に住まひたいの、綺麗な寝室や食堂のある家へ這入つてコツクだのボーイを使つて、——」
「そんな家が東京にあるかね?」
「東京にはないけれど、横濱にはあるわよ。横濱の山手にさう云ふ借家がちやうど一軒空いてゐるのよ、此の間ちやんと見て置いたの」

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【横浜外国人墓地】 外国人墓地。「Fate/Zero」において、遠坂時臣の葬儀が行われた場所です。1938年の秋頃、中島敦はこの辺りまでしばしば散歩しに来ていたようです。墓地内には中島敦の文学碑があるようですが、平日非公開らしいのでまた今度。 pic.twitter.com/phrwlT3qeV

2017-04-15 01:06:40
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中島敦「かめれおん日記」『中島敦(ちくま日本文学012)』筑摩書房 2008年 358~360頁
「外人墓地にかかる。白い十字架や墓碑の群がった傾斜の向うに、増徳院の二本銀杏が見える。冬になると、裸の梢々が渋い紫褐色にそそけ立って、ユウゴウ⁽¹⁾か誰か古い佛蘭西人の頬髯をさかさまにしたように見えるのだが、今はまだ葉もほんの少しは残っているので、その趣は見られない。
 入口の印度人の門番にちょっと会釈して、墓地の中にはいる。勝手を知った小径小径をしばらくぶらつき、ジョージ・スィドモア⁽²⁾氏の碑の手前に腰を下す。ポケットからルクレティウス⁽³⁾を取出す。別に読もうという訳でもなく、膝に置いたまま、下に拡がる薄霧の中の街や港に目をやる…(中略)…。
 少し隔たったところにごく小さい十字架が立っていて、前に鉢植のヂェラニウムが鉢ごと埋けられている。十字架の下の、書物を開いた恰好の白い石に、TAKE THY REST⁽⁴⁾と刻まれ、生後五ヶ月という幼児の名が記されている。南傾斜の暖かさでヂェラニウムはまだ鮮かな紅い花を着けている。
 こういう綺麗な墓場へ来るとかえって死というものの暗さは考えにくい。墓碑、碑銘、花束、祈祷、哀歌など、死の形式的な半面だけが、美しく哀しい舞台の上のことのように、浮かび上ってくるのである」
 中島が山下公園や墓地の辺りを散歩した記録としては、中島敦「手帳(昭和十二年)」『中島敦全集(3)』筑摩書房 2002年 416頁


(1) Victor Hugo(1802~1885)。19世紀のフランスの詩人にして小説家。代表作に『レ・ミゼラブル』。
(2) George Hawthorne Scidmore(1854~1922)。横浜のアメリカ領事館に勤めていた外交官。
(3) Titus Lucretius Carus(前99~前54)。共和政ローマの時代の詩人にして哲学者。著書に『物の本質について』。中島が「かめれおん日記」を書いた当時、邦訳なし。中島はルクレティウスをラテン語か近代語訳で読んだのでしょう。
(4) 「汝に憩いを」。cf. 『ヨブ記』11.18.

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【横浜学園付属元町幼稚園】 山手から元町へ至る坂の途中に、元町幼稚園があります。かつてここには横浜高等女学校がありまして、中島敦はこの学校で教師として働いていました。敷地内には『山月記』の冒頭を記した文学碑と説明板があります。 pic.twitter.com/ddRLSRDaTZ

2017-04-15 01:12:12
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 この文学碑ですが、道路を挟んだところにある幼稚園の事務所で見学を申し出る必要があります。
cf. 「中島敦年譜」『中島敦全集 別巻』筑摩書房 2002年 500〜504頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【喜久家洋菓子舗】 先ほどの元町幼稚園から徒歩2、3分のところにある洋菓子屋さんです。教師時代の中島敦も足を運んだお店でして、このほかにも元町にあったロシア料理店「Moscow」でよく食事をとったようです。ちなみに谷崎潤一郎は、元町の映画スタジオを舞台にした小説も書いています。 pic.twitter.com/IQX5drWf4r

2017-04-15 01:20:44
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中島敦「手帳(昭和十二年)」『中島敦全集(3)』筑摩書房 2002年 405頁; 足立巻一「「山月記」の遠景」『中島敦全集 別巻』筑摩書房 2002年 64頁; 三好四郎「中島敦先輩とのこと」『中島敦全集 別巻』筑摩書房 2002年 254頁

谷崎潤一郎「肉塊」『谷崎潤一郎全集(9)』中央公論社 1982年 4頁
[元町]は小ひさく纏まつた、北側に山の控へてゐる、可愛い美しい街なのである。路の幅は東京の仲通りぐらゐしかない、そして長さは七八丁ばかりのただ一とすぢの線ではあるが、今もいふ北側の山から幾本もの坂路がその線へ通じてゐて、山の上にある外國人の居留地から、朝に夕べに各國の人々がいろいろな風俗をして坂路を降りて來る。彼等は何處へ行くのにも必ずそれらの坂路の敦れかによつて、一遍そこの街通りへ出て來なければならないのである。坂はいづれも勾配が急で、後押しがなければ俥が登れないぐらゐなので、それでなくても散歩好きな西洋人たちは、男も女もぞろぞろ歩いてやつて來る。坂の中途から街通りへかけて、彼等を相手に商ひをする花屋、洋服屋、婦人帽子屋、西洋家具屋、パン屋、カフエエ、キユウリオシテイー・シヨツプなどが一杯に並んでゐる」

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【レイトンハウス横浜】 ここも教師時代の中島敦にゆかりのあるところです。 彼は一時期、山下町の「同潤会アパート」に下宿していました。彼が住んだアパートは今はもうありませんが、同じ住所に「レイトンハウス横浜」というマンションがそびえ立っています。 pic.twitter.com/RJsIXGgh8m

2017-04-15 01:22:32
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中島敦「書簡34〜35, 40, 42〜43」『中島敦全集(3)』筑摩書房 2002年 527〜528, 530〜531, 691頁; 「橋本辰次郎書簡6〜7」『中島敦全集 別巻』筑摩書房 2002年 401頁
cf. 「中島敦年譜」『中島敦全集 別巻』筑摩書房 2002年 500〜515頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【聘珍樓】 中華街にやってまいりました。ここ聘珍樓(へいちんろう)は、横浜在住時の谷崎潤一郎中島敦が通った老舗中華料理店です。 pic.twitter.com/TlJD3iHD2J

2017-04-15 01:24:34
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