国や行政が表現の自由を侵害したとき、表現者と素人で対抗手段が同じであっていいのか?
表現の自由は何故守られなければならないかというと理由は二つあり、「多様な意見がなければ社会が停滞し発展しなくなる」というのと「世の中のことなんかどうでもいい、俺は言いたいんだ」というものがあり、両極で交じることはないんだけど車輪の両輪として両方とも必要。
2017-04-28 11:36:02作り手が「この作品はここで展示しないと意味がないんだ。ここに置いて初めて作品が完成するんだ」と説明して、ギャラリーなり裁判官なりが「なるほどもっともだ」と思ってようやく「ここで展示してはいけない」が表現の自由の侵害になる。
2017-04-28 14:26:34しかし作り手が説明しても相手が「別にここに置かなくてもいいじゃん、別の場所に展示すればいいじゃん」だったら、もうその作品は完成していて、場所にこだわることは“蛇足”。“蛇足”とはどんな故事から言われるようになったか調べてみよう。
2017-04-28 14:26:46別にギャラリーも裁判官も「その作品は作るな」とも「その作品を破棄せよ」と言っているわけではないんだから、後者の場合は「権利の乱用」であり、権利の乱用もまた社会にとって利のない行為として却下される。
2017-04-28 14:26:58以上のことに至った経緯
この件を表現の自由の侵害というのはいいんだけど、それを作品で表現できない時点で察し案件。「群馬県立近代美術館での作品撤去問題についてのまとめ」togetter.com/li/1104750#c36…
2017-04-27 10:28:24「できない」と言うのはダメですね。将来作るかもしれませんね。すいません。
自分で書いてからどんどん不思議に思えてきたんだけど、「表現の自由」が侵害されて、表現方法を持たない、拙い一般人が「言論の自由」で対抗するのは解るんだけど、表現者が「表現」ではなく「言論」で対抗するのって、いいの?
2017-04-27 10:42:22例えば「信教の自由」が侵害されて、一般人が「言論の自由」で対抗するのはいいんだけど、宗教者が「地獄に堕ちるぞ!」ではなく「信教の自由!」と対抗するのは構わないのか?
2017-04-27 10:43:44第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。→
2017-04-27 10:47:49→にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。(以下略)」角川文庫発刊に際して 角 川 源 義
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