折鶴蘭の少女 46 雅は、率先して階段を降り始めた。油断なく懐中電灯で進路を照らすつもりだったが、すぐに、安心や余裕とは極端に遠ざかった品を見つけた。 「何……これ……」 藍斗が、雅の代わりに声を押し出した。階段を挟む壁一面に、びっしりと、紙が画鋲で止められている。 47へ
2017-05-12 23:42:2947 紙は、大小様々な広さだった。しかし、書かれている内容は同じだ。『幸せ世界』。何百枚もの紙に、その言葉が一枚ごとに一つずつ記されている。プリンターで打ち出したとおぼしきものもあり、ボールペンか何かで書いたもの、果ては毛筆まである。 「変な宗教みたい」 雅は、先頭に 48へ
2017-05-12 23:45:5648 立ち、足を止めたまま言った。 「あの……礼拝堂で、霧が晴れるまで待つのがいいんじゃないでしょうか」 藍斗が、著しく常識に沿った意見を述べた。 「あたしも……」 キョーカが同意しかけた時、階下から、冷たく湿った風が吹き上げた。雅は、被ったままの帽子を思わず両手で 49へ
2017-05-12 23:49:1649 抑えた。 「雅さん……。藍斗さん……。キョーカさん……」 風に乗って、少し高めの、震えた声が昇ってきた。 「サミヤンヌ!」 藍斗が叫んだ。ツイキャスで何度も聞いた声だ。間違えようはずがない。 「あたしも聞いた!」 「あたしも!」 雅とキョーカが同時に叫んだ。 50へ
2017-05-12 23:54:1650 いてもたってもいられなかった。三人はまっしぐらに階段を駆け降りた。ほんの三秒足を動かしただけで、頭上に響く重苦しい音に仰天し、急停止せざるを得なくなった。 「て、天井が、塞がった!」 雅が、恐怖も露に叫んだ。懐中電灯は、無常な事実を明るみにしている。つまり、 51へ
2017-05-13 00:06:3651 一同が足を踏み入れた階段は出口が分厚い板か何かで塞がれ、戻りたくとも戻られなくなってしまった。 言葉を飲み込む内に、三人は階段の最上段近くまで戻った。板と見えたのは鉄板で、押そうが叩こうがびくともしない。 「やだ……あたし達、出られないよ」 藍斗がへたりこんだ。 52へ
2017-05-13 00:09:4452 「あたしが悪いんだ……。皆を煽るようなこと言って……」 雅は、へたりこんでこそいないが、藍斗以上にうなだれた。 「佐宮ちゃん……あたし達より心細い目に会ってるかもしれないよ」 キョーカが、敢えて最悪の事態をも匂わせる発言をした。少なくともカンフル剤にはなった。 53へ
2017-05-13 00:15:3553 藍斗は膝に手をあてて立ち上がり、雅も愚痴をやめた。 「とにかく降りるだけおりて、サミヤンヌが酷い目に会っているなら助けて、地上に出る算段を考えよう」 雅が決意をこめて宣言すると、あとの二人もうなずいた。 こうして、改めて階段を降りる一同に、『幸せ世界』の 54へ
2017-05-13 00:19:1454 書きつけが執拗につきまとった。まるで、一枚一枚に目玉がついていて、自分達を監視しているようにすら思えた。とは言うものの、相手にしてもしようがない。 それから何十秒かして、階段を最後まで降りた。風は相変わらず吹き抜けている。窒息はせずに済みそうだ……目の前に 55へ
2017-05-13 00:23:5855 転がる十数個の棺桶に、息が詰まったのを別にすれば。 棺桶は、どれも長方形をしており、木製だった。朽ちてはいない。墓石や墓標はなく、一応仮置きしている、と言わんばかりの様子だ。 雅は、懐中電灯で室内を照らした。奥に出入口があり、一応先に進める。今いる部屋の 56へ
2017-05-13 00:28:4656 床や壁は漆喰で固めてあった。つまり、洞窟や穴ではない。 「ま、まさか……棺桶のどれかにサミヤンヌが……」 藍斗の台詞は、飛躍している反面、無視出来ない迫力があった。もっとも、どの棺桶もしっかりと釘で打ちつけてある。蓋を開けるのは実質的にかなり困難だった。 57へ
2017-05-13 00:34:4357 「でも、相当分厚い棺桶だし、サミヤンヌが幾ら叫んでも、あんなにはっきりとは聞こえないと思うよ」 雅の指摘に、藍斗もどうやら落ち着きを取り戻したようだ。 「これ……昭和の30年くらいの棺桶みたい」 キョーカが、棺桶の一つに顔を近づけて言った。雅と藍斗も、彼女に 58へ
2017-05-13 00:39:3758 近寄り、事実を確認した。棺桶の蓋の、頭の辺りに『昭和32年5月4日埋葬』とある。もっとも、名前の部分は磨り減っていた。他の棺桶も確かめ、年月日は全て同じで、名前が分からないのも共通しているのが読み取られた。 「納骨堂なのかな」 雅は誰にでもなく口にした。 59へ
2017-05-13 00:45:1959 「でも……少し散らばり過ぎって言うか……。いえ、何でもないです。ごめんなさい」 藍斗としては、自分の考えを知って欲しい反面、確証は持てなかった。 「旅行の計画を立てた時、こんな礼拝堂なんてなかったよね」 雅が言うと、キョーカは黙ってうなずいた。確かに、 60へ
2017-05-13 00:49:5260 グーグルマップにさえ出ていない。 「サミヤンヌがここにいないなら、さっきの声は……」 藍斗は、部屋の奥にある出入口に顔を向けた。 「そう言えば、壁に留めてあった紙は、つい最近書かれたものだよね」 キョーカが言い終えると、一際気温が下がったような雰囲気になった。 続く
2017-05-13 00:58:27折鶴蘭の少女 61 「でも、どうして昭和三十二年なんでしょう」 ややあって、藍斗は二人に聞いた。雅達に比べて十年ほど若い彼女からすれば、昭和三十年代と言ったら祖父母の時代である。 「うーん……スマホが使えたらすぐに調べるんだけどなあ」 雅は、唇の端をかすかに曲げた。 62へ
2017-05-13 23:28:3662 「悩んでも仕方ないよね……それにしても、喉が乾いたな」 キョーカが、忘れかけていた現実を降臨せしめた。一度意識し直すと、それは実に困難な問題だった。蛇口はおろか水滴一つ見当たらない。本来は、すぐに脱水症状を起こすような状況ではない。しかし、緊張感が過剰に 63へ
2017-05-13 23:33:1163 働き、肉体以上に精神が潤いを求めていた。 「あっ。そうだ」 藍斗が、突然自分のバッグを開き、中をかき回した。 「ありました」 と、出てきたのは飲みかけのミネラルウォーターだった。ペットボトルの中でも一番小さなもので、半分ほど残っていた。 「皆で分け合いましょう」 64へ
2017-05-13 23:40:2064 「いやーん! 藍ちゃん、まじ天使~」 「何なんですか、雅さん。まるでコギャルですよ」 「それ……死語じゃない?」 急に賑やかになる一同。まずは持ち主の藍斗が一口、ついで、雅とキョーカも一口ずつ飲んだ。 「月並みだけど……お水がこんなにおいしいなんてね」 65へ
2017-05-13 23:43:2365 雅はしみじみと言った。 「本当ですね」 ペットボトルのキャップをしめつつ、藍斗はうなずいた。量としては微々たるものながら、飲んだと言う事実が重要だ。それに、雅は口にはしないが気づいていた。人の世話をする仕事がら、特に女性は、一度に大量の水を飲むと手洗いが近くなる。 66へ
2017-05-13 23:47:2766 その意味では、むしろ好都合であろう。羞恥心の問題もある一方、用を足す最中は誰しも無防備になる。死体を見つけた以上、用心は当然だ。自分のせいで二人を脱出しにくい状況に追い込んだ、と言う自責の念……二人は口が裂けてもそんな非難はしないにしても……が、そうした自覚を 67へ
2017-05-13 23:51:2267 芽生えさせつつあった。自覚と言えば、自分のバッグには何か役立ちそうなものはあるだろうか。雅は続けて思い返した。化粧品、筆記用具、充電器、財布。どう贔屓目に見ても即座には使えない。サバイバルの訓練でも受けていれば別だが。雅は、棺桶を改めて眺めた。そして唐突に閃いた。 68へ
2017-05-13 23:57:5268 雅は、ティッシュペーパーを5、6枚出して、それに化粧水を染み込ませた。その上で、棺桶を適当に一つ選び、蓋の、埋葬年月日の周りを少し拭いた。汚れが若干落ちた。 「メッセージが……書いてある……」 長年の塵や埃ですっかり分からなくなっていたが、どうにか読めるように 69へ
2017-05-14 00:16:3069 なった。『第三幸天丸海難事故遭難 安らかに眠れ』と記されている。具体的にどんな事故かは不明瞭ながら、棺桶の埋葬年月日が全て同じなのは曲がりなりにも説明がついた。 「気の毒ですね」 こういう時の藍斗は、自分より他人の境遇を気遣う性格だった。 「でも、それだけかな」 70へ
2017-05-14 00:23:2870 キョーカが、素朴にして重要な疑問を述べた。 「えっ?」 怪訝な表情になる藍斗。 「ここが納骨堂だとしても、この事故の犠牲者だけが埋葬もされずに置かれるなんて、ある?」 キョーカの問いかけに、雅と藍斗は黙り込んだ。その通りだろう。安置していると言うより、 71へ
2017-05-14 00:27:09