ウィア・スラッツ、チープ・プロダクツ、イン・サム・ニンジャズ・ノートブック #2
「まだ開いていますか?」「あ……」マスラダが振り返ると、痩せた中年男性が人の好い笑顔を浮かべ、手を合わせた。「本当にスミマセン。ちょっと色々ありましてね」「ア……その」ギャラリーは広くない。マスラダはスタッフに目配せし、乞うた。スタッフの中年女性は微笑み、頷いた。 1
2017-06-05 22:10:22マスラダは唾を飲んだ。「どうぞ」かすれ声で促す。「うん」男は肩の雨粒を払い、ギャラリーに入る。「人は来た?」セバタキ・ケンロは奥へ進みながら、親しい知人に向かって話すように尋ねた。会うのはこれで二度目なのだ。「そこそこです」マスラダは答えたが、セバタキはどうでもよさそうだった。2
2017-06-05 22:16:45「うん。うん」ガラスケースに納められたアブストラクトなオリガミ作品を流し見るセバタキを、マスラダはやや離れたところで、邪魔をせぬよう見守る。緊張しないわけがない。セバタキ・ケンロはネオサイタマのサイバネ眼科医で、特許収入によって巨万の富を築いた成功者であり、美術愛好家であった。3
2017-06-05 22:24:13彼の得意分野は江戸時代のウキヨエと、時代を大きく隔てて、電子戦争以後の現代美術全般だ。特に新進の、名もないアーティストの作品に興味を示した。それらの中には今では大きく成功した者達の作品も多く含まれているが、もとは彼が……彼自身曰く……「単に新しいものが好き」で集めた作品である。4
2017-06-05 22:29:27彼は投機的な目的ではなく、ただ好きなものを集め、アーティストを支援した。彼は購入した品々を暗所に閉じ込め独占する事もせず、依頼があれば世界各地のギャラリーにこころよく所蔵品を貸し出した。そうして「セバタキ・コレクション展」は名声を築き、若いアーティスト達の憧れともなった。 5
2017-06-05 22:37:07一方で彼は一種独特な人物としても知られた。彼はマスラダと殆ど一瞬しか視線を合わせなかったし、知人に対するようなくだけた態度でありながら、会話の一瞬後にはその相手を石ころか何かのように興味を失うようだった。「……これは、いいな」セバタキが足を止めたのは黒い火の欠片のオリガミだ。6
2017-06-05 22:41:50新作だった。マスラダ自身も、その作品の為に大きくスペースをとった。エメツで染めたワ・シを用いている。エメツは光のほとんどを吸収し、目の錯覚じみた黒さを作る。それが面白いと思ったのだ。「それは……」「強い。うん」セバタキはマスラダの言葉を遮った。「質量を感じる。とても強い」 7
2017-06-05 22:47:12彼はそれから残りのオリガミをざっと見て回った。しかしすぐに黒い火のオリガミに戻ってきた。「何だろうな」セバタキは咀嚼するようにオリガミをじっと見る。「これは……とにかく、前に君の作品から感じた印象は錯覚ではなかった。無駄足にならず良かった」「……」「僕のグループ展に出さないか」8
2017-06-05 22:51:14「つまり、」「展示だよ。君の作品があるといい」マスラダは首筋に鳥肌が立つのを感じた。極力、平静を保とうとした。両足を踏みしめると、床のタイルの冷たい感触が伝わってくる。「スミマセンね。時間」セバタキはマスラダの肩越しにスタッフに言った。感慨と畏怖とで、その会話は聞こえなかった。9
2017-06-05 22:58:24美しい瞬間の記憶だった。それでもナラク・ニンジャがマスラダに反芻させるのは、この美しく凍りついた記憶ではなく、あの日の記憶だ。黒炎の炉にくべるには、必要のない記憶だからだ。ウキハシ・ポータルの飛翔が、錯覚めいて思いがけず見せた記憶を、やはりマスラダはつかみ損ねてしまう。 10
2017-06-05 23:06:14アンキタにとって、このムンバイ・オフィスは三年ぶりの故郷である。だが彼女の心に感慨は少しもない。呪いのように足を掴まれ、引きずり戻された気分だ。しかも、デオナー処分場からこんなに近く。甘い空気を呼吸するたびに暗澹たる気持ちが蘇り、化学成分でややぼやかされ、沈み、また甦る。 12
2017-06-05 23:12:17海を越えてネオサイタマに活路を求めたアンキタは、見事、シンケンタメダ社の狭き門を通り、職を得た。それがどうだ。今彼女が目にするのは黒々とした廃棄物の山。記憶していたよりも更に大きい。「アー……アーアー!」アンキタは苛立ちの唸りをあげて煙草を踏み消し、オフィスの中に戻った。 13
2017-06-05 23:17:09急ごしらえの社屋はペンキのにおいがまだ強い。それでも外の甘ったるさよりはマシだ。廊下には「健康が素晴らしく、我々の歩いてゆく方向です」と奥ゆかしいスローガンが書かれたポスターが貼られている。手のひらに溜まった美しい滴から青葉が発芽する瞬間のコンピュータ・グラフィックだ。 14
2017-06-05 23:19:48こんなポスターすらも逐一苛立たしい。このグラフィックが作成された時はまだ一面の真実がそこにあった。ニューログラの薬価が228倍となった今は少しも無い。カイシャを買収した目つきの悪いどこかのカネモチは、疑問を呈する社員に言ったものだ。「逆に訊くけど、二束三文で売るメリットは?」15
2017-06-05 23:23:41「メリット?それはもちろん、急性重度自我希薄化症は現代ある意味避けがたい病ですから、社会は……」「社会の話はしていない。俺の利益の話だ」エドゥアルトとかいう男は胸を押さえて自信たっぷりに言った。「わかっていないのか?利益を出すのがカイシャの存在理由だ。値上げしない理由は?」 16
2017-06-05 23:26:09「でも、あの薬価設定で充分に利益が出ていましたし、言い方は悪いですがあの病気は現代に生きる以上付き合わねばならない病ですから需要も減る事は無く、今後も成長……」「でも、とか、だって、はヤメロ」エドゥアルトは遮った。「そういうバカなインテリの理屈に付き合う気はない」 17
2017-06-05 23:29:58「なんだって!?」憤慨する社員に、エドゥアルトは氷のような視線を向けるのだった。「俺は相当優しい。お前に"わからせてやる"事もできるが、普段のポリシーに反しているから、しない。わからんだろうがな」そして続けた。「228倍に値上げしても連中は買わざるを得ない。これが市場原理だ」18
2017-06-05 23:34:16「そんな事ではこの会社のビジネスが続かない……」別の社員が言った。エドゥアルトは演技的に驚いてみせた。「続かない?どうでも良い話だ。俺が必要十分な株を保持し、俺の思う利益を上げさせ、俺が資産を増やす。続く続かないの話か?お前らの事など知らんよ。これがルールで、俺が勝者だ」19
2017-06-05 23:39:34葬儀場めいて静まり返った説明会場を、奴は自信満々に退出したものだ。当然、それ以来シンケンタメダ社の社内アトモスフィアは最悪になった。ぴりついた空気が支配し、会話は減り、互いに腹の内を探り合うようになった。みな目つきが悪くなり、タバコを吸う量は増えた。 20
2017-06-05 23:44:28かつてこのカイシャは定例のオンセンスキヤキパーティーを楽しみとする家族的企業であり、気弱で誠実な社長は社員皆に慕われていた。しかし……アンキタは顔をしかめた。あんなクソ野郎にうっかりカイシャを乗っ取られるような奴は、最悪の中の最悪じゃないか。彼女は職場のドアを押し開けた。21
2017-06-05 23:51:36「……」「……」キータイプをしていた者達が目を上げてアンキタを見る。アンキタが睨み返すと、彼らは目を伏せた。現地採用の期間従業員が四分の三、アンキタのように転勤させられてきた社員が四分の一だ。殺風景なオフィスに会話は無い。彼女はパーティションで仕切られたデスクに戻った。 22
2017-06-05 23:57:54このムンバイ支社の役目は、市内に突如湧き出したエメツ資源と、近海のトロマグロ資源の管理だ。ニューログラの精製にはエメツとトロ粉末が必要である。精製プラントも半月後には本格稼働が始まる。アンキタはZBRガムを噛み、髪をアップにまとめ、深呼吸して高速タイピングを開始した。 23
2017-06-06 00:02:33