御前田あなた
@anata_omaeda
映画という物語が登場人物に追いつけなかったというとき、私はヘルツォークのことを思い出す。彼の映画では、発想や着想のパワーに映画がまだ追いついていない。映画は発想や着想に翻弄される(アマゾンの奥地ででかい客船の山越えを現地の人間にさせるとか)。映画の追いつけなさが映画になるという事
2017-06-08 00:46:44
御前田あなた
@anata_omaeda
市川崑と岡本喜八はどちらも人間を愛しながら〈まぬけ〉という枠組みで描いていく点で似ている(一番大事なシーンの時に二人とも最もまぬけになる)。ただ市川崑が映画の枠内できっちりやろうとするのに対し、岡本喜八の場合、どこか映画から逸脱していくのではないかという〈緊張感カーニバル〉がある
2017-06-08 00:50:22
御前田あなた
@anata_omaeda
ちなみにカサヴェテス映画で一番緊張が走るのは、ひらてうちと鼻歌をうたう時でどちらも〈設計図〉のないひらてうちと鼻歌であるため、これこの後どうなんのと鼻歌なのに緊張感が出る。鼻歌やひらてうちを演じることは衝動なのでふつうできないのだがカサヴェテス映画ではできてしまう気がす。気がす。
2017-06-08 00:53:24
御前田あなた
@anata_omaeda
カサヴェテス映画の〈こわれた人たち〉というか〈人がこわれるを撮った映画〉というのは、日本映画ではたとえば青山真治や是枝裕和の映画に見られるかもしれない。青山真治『ユリイカ』のバスジャック犯の利重剛はきょとんした顔で銃を撃ちきょとんと死ぬ。その〈きょとん〉が、〈こわれる〉を描く
2017-06-08 00:59:16