神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

唇に触れる柔らかな感触で目が覚めた 「うふふ・・・」 目の前には指輪を交換し合った伴侶が、やわらかく優しく微笑んでいる 「提督、おはようございます」 「おはよう、神通」 言うなり、その柔らかな髪に包まれた頭を抱きこみ再度唇を重ねる 「もう、提督ったら・・・」 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

「えっちな嫁には、お仕置きが必要だからな」 「ほんとは、甘えたいだけなのでは？」 「こいつ！」 パジャマのすそからわき腹をくすぐると神通の鈴を転がすような明るい声が、寝室中に響いた 柔らかな朝日にベッドの埃が舞う様はまるで、天使の羽根が振ってくるかのよう #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

「もう提督、やめてくださいってば・・・」 身を捩る神通が殊更可愛く感じられ、首筋にもキスマークをつける 「嫌だと言ったら？」 「提督のこと、嫌いになります！」 「嘘を言え」 「・・・そんなの、ほんとにできるとお思いですか？」 妻とじゃれあう幸せな、朝の一こま #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

神通の髪を優しくなでると、シャンプーの匂いが鼻をくすぐった 「だって神通はずっと、俺のそばにいてくれるんだろう？」 おずおずと、恥ずかしそうに照れながら頷く神通 「・・・好きだよ、神通」 「私も、です」 その細い体を強く抱きしめながら、耳元で囁く 「愛してる」 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

そうしていられるだけで、幸せだった 「はい・・・」 「神通は？」 そう、しあわせだったのだ 「私も、提督のことが・・・」 それだけでよかった、他にはなにも要らなかったのに なのに・・・ #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

・・・朝目が覚めると、泣いていた けだるい体を起こすと真っ白な部屋の中は薄暗く、鉄格子越しに見える空は対照的ににび色に濁っている もう何度見たかもわからない、かつての暮らしの記憶の断片 もはやそれを苦しいとすら思わなくなっていた 「神通・・・」 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

だがそれでも、呼びなれたその名を口に出してしまうと、どこまでも深い虚無感と喪失感が胸を押しつぶす 「神通・・・なんで・・・」 なんで隣に神通がいないのか、なぜ愛した秘書艦がいないのか 理由は明白であり、それは自分が一番よく知っている だが、認めたくない #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

嘘だと信じたい いっそ悪い夢であってほしい この二年間ずっとそう考えてきたが、それでもこの悪い夢は一向に覚める気配もない 「ああ・・・ああ・・・ なんでこんな・・・」 押し寄せる罪悪感 頭が割れるように痛い 「すまない、本当に俺は・・・」 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

あのとききちんとした判断力があれば、撤退の決断さえできていれば・・・ そうすれば、自分はここまで孤独ではなかった、愛する人と幸せに暮らせていた 「なんで・・・ッッ！！」 その問いに答えを返す者はもういない #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

・・・神通は沈んだのだ、二年前 そう、あれはこんな暗く曇った日だった、コロンバンガラの作戦で #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

「もー、いつまでこんなんが続くんだろうねー」 隣で書類整理を手伝っていた那珂がけだるそうな、呆れを通り越して諦観をはらんだ声を上げる 「立ち直るのにはまだかかるでしょ」 「それにしたってもう二年だよ？ あんな病室にこもってたって神通ちゃんが帰ってくるわけじゃ・・・」 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

「那珂」 川内の鋭い声に沈黙が訪れる 「・・・もう少しあの人には、時間が必要なんだよ」 神通が沈んでから提督は執務はおろかまともな生活すらできる状態にはない 今のように病室で朝から晩まで大人しく過ごしているのまだ良い方で、一時期は銃を見ただけで自殺しようとしていた #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

「でもさあ、何もあそこまで私たちを避けなくたって・・・」 だが那珂の言うことも最もだった 神通が沈んでから提督は少しずつ、川内や那珂を・・・いや、艦隊の全員を、避けるようになった それも、まるで見たくもない汚いものを見るかのような目で #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

そこには、ただの忌避感や罪悪感というよりも憎しみや嫌悪感の方が強く感じられ、さすがの川内も辟易とする有様だった 「前はあんな人じゃなかったんだけどねえ」 「・・・なんで、あんなに変わっちゃったのかな」 那珂が悲しげに顔を伏せる 提督を人一倍慕っていたのだ、無理もない #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

「・・・もう少しだけ、待ってみよう きっと時間が解決してくれるよ」 川内は席を立つと那珂のそばに歩み寄り、その肩を力強く抱く 「大丈夫だよ、きっとまた、昔みたいに戻れるよ」 提督にその気があれば・・・ その一言を言えるほど、川内は強くはなかった #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

・・・神通がいなくなってもう何日だろう 今日も忌々しい朝が来た 病室のドアをノックする音 「オハヨウゴザイマス、テイトク？」 金属同士を擦り合わせたかのような、神経を逆なでする不協和音が扉の向こうから聞こえてくる こればかりは何ヶ月たっても慣れることができない #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

｢オオヨドデス、ゴ気分ハイカガデスカ？｣ 頭痛のあまり吐き気がするのを必死にこらえながら、扉へ近づく 窓の外に見えるのは、見慣れた・・・忌々しいほどに見慣れた、深海棲艦の顔だった 「何の・・・用」 辛うじてそこまで言ったところでヘドロのような臭いに耐えられなくなり、 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

胃の内容物を床にぶちまけた 「ダ、大丈夫デスカ！？」 「・・・帰ってくれ」 「デスガ・・・」 「帰れッッ！！」 深海棲艦の臭いと、生肉を引きずるような音が廊下を遠ざかるとようやく、呼吸を整えるだけの余裕ができた #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

この症状が現れたのは神通がいなくなって少し経ってから ・・・神通の沈んだ海域に、神通そっくりな深海棲艦が現れたという話を聞いた直後だった 偵察艦隊の持ってきた写真を見た時も今のように、胃液と朝食を執務室にぶちまけたことを思い出す かつて愛した妻は軽巡棲姫と呼ばれる、 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

化け物になっている それが危ういところで均衡を保っていた提督の精神を、致命的に壊してしまった 艦娘と深海棲艦の違いはなんなのか、なぜ神通が深海棲艦になっているのか、そもそもいつも見ている艦娘たちは実は人間の皮を被った深海棲艦ではないのか その疑念が頭を離れなくなる頃、 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

提督の目には、艦娘たちが深海棲艦しか見えなくなっていた 視覚に異常が起きてから後は早かった なにぶん、人間の知覚というものは９割を視覚に頼っているのだ 艦娘たちの声、臭い、彼女らの身につけている衣服の感触、そういったものも次々と「深海棲艦」に冒されて行った #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

提督がこの病室を出られなくなったのもその頃だ 今では川内が代理でこの警備府を取り仕切っているらしかったが、そんなことを気にしていられるほどの余裕は既に無い かつて憎み殺しあっていた敵に囲まれ、見慣れた日常が変質していく様を見ながら過ごす日々は、地獄以外の何物でもない #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

床に広がる胃液と粘液の中に、ぽつりぽつりと涙が落ちる 「神通、頼む・・・ 帰ってきてくれ・・・」 うわ言のように繰り返す 「こんな生活、もう耐えられない・・・ 神通がいない生活なんて・・・」 神通に一目で良いから会いたい、そのために何度海へ身を投げようとしたことか #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

だが抜け出そうにも医務室の窓には自殺防止用の鉄格子がはまり、鍵はかかってないとはいえ扉の外の廊下にも憲兵の目がある なにより、深海棲艦の群れの中を生身で一人で歩くことなど、できるはずが無かった 「頼む、なんでもする・・・ もうお前に寂しい思いなんてさせない、 #神通の唄

深海さかな @dzurablk_kai

神通のためならなんでもする、だから・・・！！」 そんな提督の怨嗟を帯びた慟哭は、誰もいない廊下に響き、誰の耳にも届かなかった ・・・ただ一人を除いては #神通の唄