福留麻里ソロダンス公演「抽象的に目を閉じる」(2017年9月10月 三鷹SCOOL 京都cumono gallery)

感想まとめ
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桜井圭介 @sakuraikeisuke

そうではないものとしてのダンスの有力な一つが、「社会的言説」としてのダンス、ということになるのだろうが、この日の福留麻里のダンスにあった「生活」というものの中にも「社会」が含まれるのだと考えればどうか? セカイ系ダンス、と言いたいがそれはそれはまた別の誤解が生じるので言わない。

2017-09-26 00:05:50
桜井圭介 @sakuraikeisuke

福留麻里『抽象的に目を閉じる』@SCOOL。エクリチュールあるいは「テクスト的な現実」(蓮實)のようなものとしての「ダンス」:唯心論/山や川や石のようなものとしての「ダンス」:唯物論。その二つを揺れ動く舞台。いずれにせよそのことによって導き出される解は「ダンスはダンスである」だ。

2017-09-25 23:57:19
Kaoru Kurazumi @KaoruKurazumi

福留麻里さんのダンスに万葉の歌が登場。見に行くことができず残念。 ぜひお話したい。 うちなびく 春来たるらし 山の際の 遠き木ぬれの 咲きゆくを見れば twitter.com/suzume100made/…

2017-09-25 21:40:29
高橋大助 @suzume100made

「抽象的に目を閉じる」福留麻里於scool ただ目を閉じれば具体的な風景が脳裏に残り、閉じながら視覚に支配される。抽象的に閉じるには、風景の向こうにあり、風景を成り立たせる《見えるもの/見えないもの》の間に目を凝らす。文体の向こうにあるものを読むようなダンスに酔う。

2017-09-25 21:37:07
高橋大助 @suzume100made

「抽象的に目を閉じる」福留麻里於scool ただ目を閉じれば具体的な風景が脳裏に残り、閉じながら視覚に支配される。抽象的に閉じるには、風景の向こうにあり、風景を成り立たせる《見えるもの/見えないもの》の間に目を凝らす。文体の向こうにあるものを読むようなダンスに酔う。

2017-09-25 21:37:07
斉同動詞 @seidodousi

福留麻里「抽象的に目を閉じる」(3) 当日パンフに数自体はないけれど存在するという哲学的な文章が引用されていた それに「ついて」踊るのは大変だなと思っていたら、想像を超えて経験や光や哲学「と」踊っていたことに驚いたし感動した 人は同時に考えることはできないけれど踊れる!素晴らしい

2017-09-25 20:49:31
斉同動詞 @seidodousi

福留麻里「抽象的に目を閉じる」(2) ということで、終演後のトークで神村恵さんが「目を閉じてもいいと思える瞬間があった人?」と訊いていたけれど、タイトルに合わせて考えるなら、自分にとっては福留さんの身体の動きを目で追うことこそが、目を閉じて思念を重ねることに思えたのであった

2017-09-25 20:47:42
斉同動詞 @seidodousi

福留麻里「抽象的に目を閉じる」@ SCOOL 個人的な経験、思い、テキストの引用「を」踊るのではなく「と」踊る それらは回転する照明器具と同じ共演者としてそこに存在する 見えないけれど存在する関係の多重の枠組の中でダンスが浮き立つ 同時にダンスを観ることでそれらの存在に触れている

2017-09-25 20:46:39
中西理@演劇舞踊評論 @simokitazawa

<SCOOL パフォーマンス・シリーズ2017 Vol.3>福留麻里ソロダンス「抽象的に目を閉じる」@三鷹SCOOL - 中西理の下北沢通信 simokitazawa.hatenablog.com/entry/2017/09/…

2017-09-25 12:25:22
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

作品そのものを見るのかコンテキスト優先か、というのはほぼ区別なく、特に私というものは表現・理解の一形式であり、特定の表現形式においては特に、石ころの硬さや絵の具の質や画面の枠のように、強い抵抗と主体性とをもって制作者・知覚者ともへ迫る

2017-09-25 03:09:08
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

踊りと言語表現は、いずれも異様に〈私〉が、表現の素材や形式としても、立ちはだかってくる気がする モノに委ねきれない ある意味興味深いのかもしれないのは、これが即興ではなく少なくともある程度の構成(記譜?)を持っていること その構成もまた、ひとつの法則=感情=意思=根拠を持つだろう

2017-09-25 03:04:40
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

そしてそれは、そのような「私」という、理解の形式を作ることでもある(かもしれない)。そしてまた翻って(余計に?)言えば、目をとじる身体を見る形式を作ると同時に、何かを見ている身体を見る形式を作ることでもあると言えば、一周回って冒頭の、音に満ちた空間を見るばかりの身体にかえっていく

2017-09-25 03:04:33
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

その理解の形式のなかで、じっと目をとじる身体がある、そしてそれを見ている私がいる。私は目を閉じ思考していない。が、ここまでの動きと音と語りと光らが各々で法則となり、行為の由来となり、〈私〉を分有された状態で、そこに目を閉じた身体があるとき、その思考が時空に広がって感じられる。

2017-09-25 03:04:20
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

腕の先、足の先、身体の輪郭、等などを基点とする動きの生成においてもそう、腕の長さが軸になって動くこと、においてその動きはどこに法則=感情=意思=根拠を持ち、それはどのようなかたちでここに広がっているのか。行為における私、が網の目を何重にも作る。そしてそのなかで、

2017-09-25 03:04:06
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

空間の中に、過去の私、今の私、が折り重なった状態で、いまこの身体が腕を動かしている、その腕の動かしはどこに従属し、なんの法則=感情=意思=根拠で動いているのか。それはどこに位置していて、それを感じている観測者である私はどこにあるのか。同様にそれはもちろん、

2017-09-25 03:03:58
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

そのように感じられるという、行為に対する理解の形式について思考する手立てが与えられること。おそらくは(?)目の前の身体の私が過去に語ったらしい声、その背後から聞こえるキーボードをタイプする音、実際に今ここで打つキーボードの音、は、言葉の所有者を過去の特定の瞬間の私に位置づける。

2017-09-25 03:03:50
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

語り、PC、音響、光、本、はそのような感情=意思=法則=根拠の距離・空間を、シンプルに、実験のように、様々な形で展開する。首くくり栲象さんの話をする、そのなかで語られる人物が目の前の身体における私であること、その身体がぴょんぴょん飛ぶことは首くくり栲象さんの話に由来していること、

2017-09-25 03:03:42
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

水が蛇口から出てシンクまで行きつく間の距離・空間に満ちた感情=意思=法則=根拠を探ることが、私がなぜこの行為を行ったかということ、私がなにも身体を動かしていないのに何かを感じ思考していること、私がそれを感じられるが別の場所の私はそれを感じられないこと、へと連なる。

2017-09-25 03:03:31
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

私の行為はどこまで私か。私がスイッチを押すとビルが爆発する。私はスイッチを押しただけであとは導火線やらなんやらが爆破を招いた。だが私が爆破したと言える。そのようなレベルで行為は私に所有されたり、あるいは出来事や現象や事物によって多重的に所有される。理解の形式を介すると。

2017-09-25 03:03:21
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

私が腕をぐわんと動かす、それはぐわんと動かすときの感覚に従属し、それを確かめようとしているからだ、ということ。それが、他に共有されること。具体的形態をもたない感覚が、共有される。それはコンテキストというよりは、理解の形式としての身体、言葉、現実、なにより〈私〉だ。

2017-09-25 03:03:12
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

しかしその私的感覚は伝達可能か 物理的に腕を動かすのを他の私が見るように、この私の感覚を共有すること。その感覚を感じる私=観測者とはどこにあり、どの範囲まで広がっているのか。目をつぶっている私の内部に広がる思考と、動きを満たす(動きが従属している)法則が、近づいてくる。

2017-09-25 03:03:02
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

円を描くように動く照明……に向かっていく、照明が近づくと避ける、を繰り返しているのを見るだけでは単に近づいてきたものを避けているだけに見える、が、実際にやると視界を極度に覆い空間を満たす光の強さと近さが、自分の向かう動きを上回り、空間全体が近づいてくるように感じられる。私的感覚

2017-09-25 03:02:51
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

その動きを見ている人にとってその体験は伝達可能だろうか。もう少し先へ。地図を空中に描きながら言葉で説明するその際の身振りは腕をぐっぐっと動かす点で、何も言わず踊っていたときと動きとしてとても近い、が、それは場所を説明するときの身振りだ。私らはなんの動きを見ているのか。

2017-09-25 03:02:38
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

じっと目を閉じている人、が考えていることは、それを見ている人からすればわからない、が、しかし目を閉じているこの私においては思考は確かに存在しているし、その思考自体もまた運動している。同様に、手をぐっと動かす、その動きの細部に神経を行き渡らせる、自分にとってそれは極度の体験だ、だが

2017-09-25 03:02:30
山本浩貴(いぬのせなか座) @hiroki_yamamoto

福留麻里「抽象的に目を閉じる」、魂と法則、私の範囲と行為の従属先の問題を感じた。物理的な動きを見せる(円を描く手など)とも、または身体から読み取れる感情や役柄を見せるか、とも違う、〈私において生じる(異様な物質的外部性をもった)知覚を見せること、がある、しかしそれは表現可能なのか

2017-09-25 02:59:38
chaghatai @chaghatai_khan

福留麻里ソロダンス公演『抽象的に目を閉じる』を観た。冒頭、鳥の鳴き声を思わせるBGMに合わせて視線を動かす一瞥/一瞬だけでSCOOLの空間が森と重なる錯覚に陥り、一気に引き込まれた。特殊照明?が回転するシーンでは土星探査機カッシーニを思い出したり。

2017-09-25 01:07:51