「戒」に関する一考察

「戒律」に関する自分ツイートをまとめました。
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Keiko Onoda @mad_bambi

ツイッター僧★彡 に十戒はないのですか??? RT @sokou 我々語では「放行」と言います。大勢でバーっとやりましょう!パぁーっと! QT @babakikaku_m というわけで和尚、温泉と精進料理つきの酒行という方向に

2010-03-29 14:12:17
@sokou

現在の仏教…禅宗(臨済宗)では、在家の方が仏教徒となる事を「得度(とくど)」と言います。「度」という言葉は衆生(生きとし生けるもの全て)を救うという意味で私たちは使いますが、ここでは俗世間から仏教を基本にした生活を得るという意味と解してよいかと。 @mad_bambi

2010-03-29 14:37:09
@sokou

得度する際に果たされる戒は、「仏(ぶつ)法(ほう)僧(そう)」の「三宝」に帰依(きえ)すること。帰依とは尊び、信じ、従うことで、キリスト教の受戒と同義と考えてよいかと。 @mad_bambi

2010-03-29 14:47:18
@sokou

「仏」とは言わばありのままの、根本の自分。「法」とは(仏教が指すところの)この世に普遍の真理。「僧」とは、仏道を実践するもの。その3つに帰依を誓えば得度することができます。具体的には「三帰戒」というお経を読みます。「南無帰依佛。南無帰依法。南無帰依僧。…」 @mad_bambi

2010-03-29 14:56:00
@sokou

いま再び仏教が勃興してるインドでは、インド現代仏教の師・アンベードカル博士が始めた「大改宗式」が年に1回盛大に開かれ、毎年何万人ものヒンドゥー教徒が仏教徒に改宗します。 @mad_bambi

2010-03-29 15:07:04
@sokou

その背景には、いまだ根強く残るカースト制度からの脱出という大テーマがある訳ですが、そこでもこの三帰依が唱えられます。「ブッダン、サラナン、ガッチャーミ…」。現在の最高指導者である佐々井秀嶺師は1回につき15分ほどの儀式を3日間に何十回も繰り返す訳です。 @mad_bambi

2010-03-29 15:13:07
@sokou

そもそも、仏教の戒とキリスト経のそれとは根本が違います。「神」を絶対の存在と位置づけるキリスト教は、神への忠誠を誓い、神の価値感(戒律)を受け入れることにより、そのご加護を賜ります。神との契約ですね。 @mad_bambi

2010-03-29 15:26:12
@sokou

仏教は、その根本において、絶対的な存在をおいていません。あるとすればそれは「法」という名のソフトウェアで、数々の如来・菩薩はそれを具象化したものです。 @mad_bambi

2010-03-29 15:28:17
@sokou

もっとも象徴的なのは「穢れ(けがれ)」という考え方。ヒンドゥー教も日本の神道そうですが、神の絶対化はその対局に加護が及ばない存在や状況が位置づけられます。曰く、背信者や神を信奉しない者は穢れる、またはヒンドゥー世界に象徴される神を頂点とする格付け。 @mad_bambi

2010-03-29 15:34:49
@sokou

仏教はその始まりが輪廻転生という価値観からの脱出であり、自立です。世界の格付けから脱するには己を世界から相対化しなければいけない。その為の帰依であり、戒である訳です。 @mad_bambi

2010-03-29 15:37:48
@sokou

…しかし仏教にもそれを実践する者(出家者)の戒律というのが昔からあります。それは非常に細かくかつ厳密で、二百数十から三百数十あります。日本では現在それを実践してる方はいませんが、いわゆる「上座部仏教」とよばれる南伝仏教の出家者は今でもそれに準じています。 @mad_bambi

2010-03-29 15:46:02
@sokou

他方、在家の方々に向けての仏道実践の戒は、「五戒」と呼ばれるものがあります。不殺生戒(殺さない)/不偸盗戒(盗まない)/不邪淫戒(淫らなことをしない)/不妄語戒(嘘を言わない)/不飲酒戒(お酒を飲まない)。キリスト教の十戒に通じるものもありますよね。 @mad_bambi

2010-03-29 15:50:34
@sokou

しかしこれは「契約」ではない。戒を守っても加護はしてもらえません。これが、キリスト教との大きな違いと言えます。 @mad_bambi

2010-03-29 15:54:56
@sokou

あ、間もなく雲水さんがくるので、ちょっと中断。(まだ続けるんかい!) @mad_bambi

2010-03-29 15:57:02
@sokou

さて、まぁ私の話は仏教の原理的な話であって、実際は「神仏のご加護をッ!」などという言葉が日常的(?)に使われていますよね。これは日本では仏教がその早い時期から日本の神信仰と習合しているからでして、仏教はその早い時期から呪術的な文化と親和してます。 @mad_bambi

2010-03-29 16:24:00
@sokou

神頼み、仏頼みというのは、何だか頼むこちらはノーリスクで、困った時には現金にお願いする典型的なフレーズ。だから仏教も現世利益の権化みたいな印象を多くの方がもっているのではないかと思います。 @mad_bambi

2010-03-29 16:28:00
@sokou

しかるにキリスト教は神という絶対の存在と向き合う緊張と喜びがあるし、また布教者の方々もその緊張ゆえの実践者が数多くいらっしゃる。大乗仏教はその性格上、つきつめるとなんでもありの野放図感が漂いますが、キリスト教には静粛なるものがあるのはそれ故かと思います。 @mad_bambi

2010-03-29 16:32:46
@sokou

そしてまた、「淫」「盗」「嘘」というのは、恐らく世界中の、社会・個人を律する教えすべてにある禁止行為で、それを果たし、実行するための智慧と教えが「宗教」となり、または「法律」となっているといってもよいでしょう。 @mad_bambi

2010-03-29 16:39:43
@sokou

それは裏を返せば、「淫」「盗」「嘘」は、その太古から、人間という存在には不可分なもので、それを否定しようが拒絶しようが、存在するものであるということの証左だとも言えます。 @mad_bambi

2010-03-29 16:43:37
@sokou

それに振り回されるのではなく、それにどう向き合うか。仏教にせよキリスト教にせよ、「戒」とは良好な生活を送ろうとする者へのコントローラーであり、目安であり、お守りであると思います。 @mad_bambi

2010-03-29 16:58:21
@sokou

そのお守りを握りしめることで、平安を得ることができるならば、そこにはその人それぞれの必要な「宗」があるのですから、どんな宗教に依っても構わないかと思います。たとえそれが「新興」と呼ばれるものであっても。 @mad_bambi

2010-03-29 17:03:13
@sokou

自らを貶めるのではなく、自らを活かすことになるのであれば…。仏教的な考えかもしれませんが、「戒」は自分への責め道具では決してないはずです。 @mad_bambi

2010-03-29 17:06:31
@sokou

…という訳で私も「戒」を右目に自由自在、と。…アイドル、表情がちょっとこわばってない?w @mad_bambi

2010-03-29 17:12:09
@sokou

以上、破戒僧による、「戒」談でした!お粗末! @mad_bambi

2010-03-29 17:13:44