録音された演奏の存在論

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*死に舞/shinimai @shinimai

抽象的対象としての演奏(Performance)という問題を思いついた・・・

2011-03-23 16:59:40
*死に舞/shinimai @shinimai

音楽の哲学における議論で、基本的にPerformanceは個別者であって、出来事と考える。

2011-03-23 17:00:23
*死に舞/shinimai @shinimai

だがそうした場合、あるライブ録音をCDで聞いたとき、「Performanceを聞いている」ともし言い得るのが妥当ならば、それはいったいどのような対象を聞いているのだろうか・・・

2011-03-23 17:01:41
*死に舞/shinimai @shinimai

これなんか混乱するな・・・複製物を通じた例化っていうのをどう考えるかによるな。

2011-03-23 17:02:12
*死に舞/shinimai @shinimai

録音物を通じて我々が直接聞くものは、厳密に考えると当然、個別的な具体者・・・つまり、録音物のオーデイオを通しての再生。細川周平の言うところの「サウンド」。「聞いている」と言い得るそれ以外のものは「作品」、「演奏」、「楽器の音」でなんであれ、それらは厳密には抽象的な対象と考えるべき

2011-03-23 17:05:52
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai 映画において演技を見る場合の方がイメージしやすそうだけど、そういう存在論はないの?

2011-03-23 17:07:29
*死に舞/shinimai @shinimai

とは思えど、録音物を通じて聞く「楽器の音」や「ある曲の演奏」が抽象的なものだと言うのはなんか気持ち悪い。ウォルトンの写真に関する透明性テーゼの録音物版を言うことが出来れば、それらは直接聞いていると言うべき。

2011-03-23 17:07:33
*死に舞/shinimai @shinimai

@taninen 映画の存在論の議論はあまりしりませんが、ウォルトンの写真論がこれに関する議論です。ただそれは存在論ではなく、認識論です。

2011-03-23 17:08:18
*死に舞/shinimai @shinimai

写真を通してある人物を見るとき、そのときの「ある人物」ってどういう存在論的身分なのか良くわからん。ウォルトンの写真論を存在論的観点から主張している議論があればな。

2011-03-23 17:09:32
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai 映画において「俳優の演技を見る」と言うことが自然であるのと同じ意味で、録音物の演奏もまた聞こえるものだと思うのだけどなあ。

2011-03-23 17:10:17
*死に舞/shinimai @shinimai

@taninen 実際、Kaniaはウォルトンの写真論における透明性テーゼを傍証として、録音物の場合も演奏を直接聞いていると、ある一定の条件のもと、言えるって主張しています。ただ一般的な存在論のカテゴリーとして、そのような演奏を、どう処理すべきかちょっとよくわかりません。

2011-03-23 17:12:41
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai どう処理すべきか分からないというのは、ライヴ演奏との対比という点で?

2011-03-23 17:17:38
*死に舞/shinimai @shinimai

「演奏すること(PerformanceでもPlayでも)」や「演奏の結果もたらしめされるもの」が具体的実践であり、我々が存在をもたらしめるものである以上、普通に考えて演奏は個別的なものである。録音物や複製物は個別者に反復可能性を与えることができる。

2011-03-23 17:19:25
*死に舞/shinimai @shinimai

そのとき反復することと、例化することは別のことと考えるべきなのだろう。

2011-03-23 17:19:38
*死に舞/shinimai @shinimai

@taninen ライブ演奏、生演奏は、普通に「出来事」や「行為」といった個別者に帰属するということは、ほとんどの人が一致することだと思うんですが、録音された演奏、もしくは録音物を通して現れる演奏は、どういったカテゴリーに所属するのか良くわからんのです。

2011-03-23 17:21:01
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai 映画の場合、「出来事を見る」と言っても、物語上の登場人物の行為と俳優の演技とでは別の存在として扱えるはずで、それと同じ線で考えられないかなあと直感的に思う。そういう話ではない?

2011-03-23 17:26:22
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai つまり、「ライヴの演奏」と「録音物の演奏」は、二項対立的に置いても上手く説明できないのではないかなと。

2011-03-23 17:29:09
*死に舞/shinimai @shinimai

@taninen Kania=Waltonの議論の路線はそういう風なことを実際に言ってますが、「物語上の登場人物の行為」は個別的な出来事ではないようにも感じます。「ハムレットの復讐」は反復可能なものだと思えて。

2011-03-23 17:30:23
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai 同じ戯曲の映画化でも、演出や撮影の仕方によって別の出来事のように作って見せることは可能、とは考えられないだろうか。

2011-03-23 17:36:35
*死に舞/shinimai @shinimai

@taninen その場合、別の出来事であるのは、あくまでも個別的な作品の個別の俳優の演技でありますよね。それに対して「ハムレットの復讐」というのはそのような個別の出来事が例化することができるものだと思います。その場合、「出来事タイプ」とかいうのかな・・・

2011-03-23 17:44:59
*死に舞/shinimai @shinimai

「出来事タイプ」ってのは、なんか気持ち悪いので「物語タイプ」みたいなものなんだろう。物語の存在論とか三浦さんの本とかになんかあるかな。

2011-03-23 17:45:50
*死に舞/shinimai @shinimai

でもそのレベルにおける「物語タイプ」は音楽の存在論においては作品のレベルにある事柄であって、問題の録音における演奏とはちょっと違う。

2011-03-23 17:46:48
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai もちろん演技としてもなんだけど、原作から読み取れる以上の物語上の出来事(特にディテール)を描くことは、映画では一般的なのではないだろうか。

2011-03-23 17:49:11
taniguchifumikazu @taninen

@shinimai 僕が今念頭に置いているのも、言うなれば「フィクションの存在論」なのかも。ただし物語というよりは、見えるものや聞こえるもののフィクション性の問題。

2011-03-23 17:56:37
*死に舞/shinimai @shinimai

@taninen それは同一の「物語上の出来事」の「異なる描写」、「異なる表現」と考えるべきではないのでしょうか?何にしろ、同じ物語を共有するものである以上、ある抽象的なレベルに共通の何かが必要なはず。

2011-03-23 17:57:09