1988年の忌野清志郎の反原発と今、そしてこれから ――インディー映画が語る新しいリアリティについて
25.しかし、今回の震災と福島原発事故によって、子供のような清志郎のシンプルさが僕の心をまた揺さぶっている。僕は原発問題をしばらく忘れた。けれど忘れている間もリスクは継続していた。忘れなければやってられないが、気がついた時には大変なことになっていたのである。
2011-03-30 01:44:2626.ロックや映画はシステムの側ではなく人間の側に立つべきだという前提で、僕は原発をもう容認できない。被爆者を出さなければ(出しても)停められない、平常時でさえ被曝者を出さないと運転できないエネルギー生産方法は僕らの存在を非人間的に貶めている。
2011-03-30 01:45:1227.インディペンデント映画がダイナミックなメッセージ性を失って久しい。映画は必ずしも政治的なメッセージを語る必要はないしメッセージそのものが映画でもない。メッセージそのものがロックでないように。が、映画というのはストーリーを孕む。同時にストーリーはなにかを語らざるを得ない。
2011-03-30 01:49:0728.何を語ろうと、映画は娯楽であることを忘れるべきではないとも思う。映画においては僕はエンターティメント派である。「退屈だけど芸術的でいい映画」にはあまり興味がない。しかし、娯楽であると同時に何を語るのかは大事であると思うタイプだ。
2011-03-30 01:50:0629.では、昨今のインディー映画は何を語ってきたのか。「今、ここにいることのリアリティ」をとりあえず語ることでよしとして来たように僕には思える。しかし、リアリティが突き崩された今、映画は新しいリアリティを語ることを余儀なくされていると感じている。
2011-03-30 01:50:5630.先日、僕の『見えないほどの遠くの空を』の試写に来てくれた藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭・コーディネーター)は、「過ぎ去った時代の忘れ形見であり、変化の早々の予言かも知れない」というメールをくれた。そうかも知れないと僕は思った。
2011-03-30 01:51:3331.不謹慎だが、見えなかったものが見えたような気さえする。見通しの悪いややこしいシステムに乗っかって、リスクと効用のトレードの計算を説く連中の面構えも見せてもらった。それに対して思うことはまたつぶやく。
2011-03-30 01:53:07