『スーサイド・フェニックス』第2回

『スーサイド・フェニックス』2回目の放送。
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水ようかん @mzyukn_0809

もう一つは、その腕の奥に鎮座し惰眠を貪る、羆。この穴に充満する異臭は、腕だけでなく、羆の獣臭さも手伝っているのだろう。推し測るに、彼(或いは彼女)が、件の腕を獲得し持ち込んだのだと思われる。羆の口元に血液が付着していることがその推測を裏付けている。

2018-02-09 23:31:59
水ようかん @mzyukn_0809

私は、これら二つの原因から、この羆が私の左腕を食い千切り捕食したのだと結論づけた。

2018-02-09 23:33:03
水ようかん @mzyukn_0809

そしてこの羆が眠っているということは、満腹中枢が刺激されたということであり、生理的欲求は満たされた状態にあるのだろう。つまり当分の間この羆は目を覚ますことはないだろうし、今がこの窖から逃げ出す好機だということになるだろう。

2018-02-09 23:34:13
水ようかん @mzyukn_0809

しかし問題が一つある。羆は穴の出口と私の間、つまり私の脱出を阻むかのように位置しているということだ。

2018-02-09 23:35:19
水ようかん @mzyukn_0809

この羆を跨ぐには彼我の体躯に大きな差があり、横を通るにはこの窖は狭すぎた(本来はこの羆の塒であり、一頭分の空間が確保できれば問題ないだろうからそれも無理からぬことではあるが)。

2018-02-09 23:36:43
水ようかん @mzyukn_0809

そして当然、眠っている羆を動かして脱出経路を作り出すという方法も、私自身の膂力以前に相当の危険が伴う博奕でしかなかった。

2018-02-09 23:37:53
水ようかん @mzyukn_0809

ならば、と。私は必然の帰結として残った手札に賭けることにした。目覚めたばかりだからかどうも意識が瞭としないため、事に当たるならば早急にせねばなるまい。

2018-02-09 23:39:05
水ようかん @mzyukn_0809

早速私はふらつきながらも腰を上げ、そろりと羆に近寄った。衣擦れや土踏みの音をも殺し、懐から自殺用の小刀を取り出す。かつて私のものだった左前腕を跨いで、とうとう鼾をかく羆に肉迫した。

2018-02-09 23:40:24
水ようかん @mzyukn_0809

羆を見れば見るほど、それが弱者を食らう強者であると思い知らされる。

2018-02-09 23:41:42
水ようかん @mzyukn_0809

長く鋭く研ぎ澄まされた犬歯や爪はまさしく兇器たりえ、血と脂を吸った私の小刀などそれこそ歯牙にもかけないだろう。 左の耳朶には切れ込みと膿が見られ、そう遠くない時間に同等の存在と渡り合っていたことが窺える。

2018-02-09 23:44:09
水ようかん @mzyukn_0809

呼吸と共に上下する剛毛は堅牢な鎧のようで、且つその鎧の下では隆々の筋骨が偉丈夫然とした勇ましさと荒々しさを内包している。 頭蓋に至っては、貧相な刃など通すどころか寧ろ弾き返すだろうとすら思わせた。

2018-02-09 23:45:16
水ようかん @mzyukn_0809

体長は私を二人繋げても足りぬ程で、その超体積が猛然と襲いかかってくるのを想像するだけでも怖気を喚起せずにいられない。果たしてこれは私と同じように生物であるのだろうか、そのような問いが、小刀を持つ私の右手を逡巡させる。

2018-02-09 23:46:23
水ようかん @mzyukn_0809

決意を固めねばなるまい。羆がいつ目覚めるか分からないということも懸念事項の一つではあったが、のみならず、前腕の失われた左肘から夥しい量の血液が流出していたため、体温と意識が漸々と奪われつつあるというのもその一つであった。

2018-02-09 23:47:52
水ようかん @mzyukn_0809

羆の呼気がかかるような位置で跪き、私は小刀を首筋の頸動脈があると思しき箇所に添えた。これより先は不退転である。

2018-02-09 23:49:24
水ようかん @mzyukn_0809

先に述べた事項の更にもう一つとして、右手のみの力で重厚な皮膚だけでなく脈に傷を付けることは能うるのかということがある。それについては、悲観的かもしれないが、困難を極めると予想される。可能な限り渾身の力を込めて、乾坤一擲を賭す必要があるだろう。

2018-02-09 23:51:29
水ようかん @mzyukn_0809

頭の中で、三、二、一、と唱える。

2018-02-09 23:52:58
水ようかん @mzyukn_0809

だが、その一が終わるよりも刹那早く、肘から垂れた血が雫となって一滴、羆の鼻に落ちた。

2018-02-09 23:53:54
水ようかん @mzyukn_0809

一定の間隔で聞こえていた羆の寝息が止まり、理知的な目が開かれる。その目が私の存在を捉えるより早く、私は小刀を切り込ませた。だが、焦りからか兇刃は彼(彼女)の薄皮に線を引くに留まり、剰え勢いで手元から離れ土に浅く突き刺さった。

2018-02-09 23:55:15
水ようかん @mzyukn_0809

ゆっくりと、世界が一秒一秒をよく噛み締めるようにと計らったかのように、体感時間は濃密に凝縮された。

2018-02-09 23:56:41
水ようかん @mzyukn_0809

死の権化が、その巨躯を徐に起こす。遁走を図ろうにも、羆が身体を起こしたことでいっそうその経路は塞がれた。圧巻の威容に、思わず後退る。それに合わせるように羆が躙り寄る。後ろに退ったところで、袋小路である以上逃げ場はない。そしてそれを確認していると、突如その時は来た。

2018-02-09 23:57:56
水ようかん @mzyukn_0809

一瞬で、私が瞬きをするよりも短く、羆は携えた兇器で袈裟懸けに私の顔を切り裂いた。視覚によって状況を把握できたのは、それが最後であった。

2018-02-09 23:59:42
水ようかん @mzyukn_0809

前も後ろも見えない。見えるのは、只管に、赤だった。ただただ、身体は凍えんばかりにその体温を下げ、にも拘らず顔は焼き鏝でも押し付けたかのように熱かった。呼吸をしようにも、鼻腔や口腔を空気が通る度に、神経を直接磨り減らすような激痛が伴った。

2018-02-10 00:00:48
水ようかん @mzyukn_0809

額や頬の皮が捲れ、だらりと垂れ下がる感覚が明瞭に届く。滔々と傷口から血が流れ、顎を伝ってぼたぼたと垂れ落ちるか、或いは乱雑に引き裂かれた皮膚の切片と共に凝固する。顔全体が鼓動しているのではと錯覚しそうな程血管が脈打ち、止めどなく私から血液を奪っていった。

2018-02-10 00:01:52
水ようかん @mzyukn_0809

手や足の感覚はとうに失せ、今自分が立っているのか倒れているのかも判断がつかない。そして、対峙していた羆がどこにいて何をしようとしているのかも分からなかった。意識は霧がかかったように朦朧とし、やがて、私は何を考えることも感じることもできなくなった――。

2018-02-10 00:04:08