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@takamine108 私は「コート」の人物は「隻眼?」ぽいんで安部磯雄(早稲田大学野球部創設者)ではないかと睨んで調べてるところです。
2018-03-25 09:44:49@simasyodes @hirataitaisho まとめへの使用問題ありません。お問い合わせもされたとのことで、今後の展開を非常に楽しみにしています。 シアトル朝日ですが、野球部史によると大正7年9月13日にも試合をしていました(「野球歴史写真帖」には早慶明法と戦ったとあり、慶應との対戦の模様が写真に残っています)。 pic.twitter.com/gkVifwrZUh
2018-03-25 14:10:15(メモ)ワシントン大学の大隈重信邸来訪は大正10年9月21日(大隈重信演説談話集略年表より)。 大隈さんは海外から野球チームを招聘するたび自邸でティーパーティーを催していたが、このワシントン大学との懇談が最後のものになったとのこと(早稲田大学野球部史より)。
2018-03-24 15:58:09情報を追加します。3/25:14;00
でもなあ 海軍は百武ぽいしな・・・大正3年だと階級合わないなふ~ん 確かに大隈が没年前年にしては「元気」って言われればそうだ な・・・ これは本当に早稲田大学に問合せないといかんかも。
2018-03-24 22:19:13佐賀の大隈重信記念館は問い合わせアドレスないのか(FBページはあるみたいけど俺がやってないからメッセージできない)もう封書送ってみようかな。
2018-03-25 08:21:28主に下記内容のメールを早稲田大学大学史料センター、早稲田大学野球部に送った。 pic.twitter.com/C1NO1vRFYT
2018-03-25 14:10:47saga-museum.jp/museum/ ほぼ同じ内容で、陸海軍人が佐賀県出身者の可能性を考え、その旨を加えたメールを佐賀県県立博物館へも送った。
2018-03-25 14:18:00寄せられた情報を追加します。3/26:22;00
@simasyodes 左端は安部磯雄っぽいですね。他の日本人が誰なのかが気になってきました。笑 シアトル朝日のメンバーが分かれば年代確定という面ではベストなのでしょうが、それは… さすがに… 大正3年来日時とはユニフォームが違うようではあります(下段がシアトル朝日、上段美香登倶楽部)。 pic.twitter.com/36oeGRbS9e
2018-03-25 14:22:24@simasyodes 大正10年の場合、早大野球部史にシアトル朝日の来訪と試合の記録がないのが気になるところです(秋季に「来日」はしている記述はあり)。遠征時の7月にシアトルで対戦しているので、9月にワ大&早大野球部とともに大隈邸に来ているなら、飛田が例の記念撮影時の話とともにその旨書いていそうな。
2018-03-25 16:35:30@simasyodes シアトル朝日の「来日」は、大正3、7、10年にあり、7年の海軍少将は兵学校19期(百武)〜16、17期)くらいまでのようです。 陸海将官は大隈関連ではなく招聘チーム側に縁のある人という線はないですかねえ。大正7なら18期の平賀徳太郎少将(明治期にワシントンDC駐在武官経験あり)が存命でした。
2018-03-25 16:53:45@takamine108 @simasyodes 勲章があまりアテにならなくなってしまったのががが。 この旭日章らしきものが「勲一等旭日大綬章の副章」なのか「勲二等旭日重光章の正章」なのか、で全然話が違ってしまう。
2018-03-25 22:27:53@simasyodes @takamine108 あととにかく「軍部(軍人)とやきう」の関連性がねぇ…… 特に陸軍はまだしも海軍までついてくる?という。
2018-03-25 22:38:55大隈重信邸を訪問した野球チーム「シヤトル朝日」について、秋に日本に来た9チームの中には「沙市朝日」として入っているのに、このチームだけ試合結果が書かれていない。ワシントン大学に同行しての来日かな?(9月9日横浜着) 飛田忠順著「早稲田大学野球部史」P307-372 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid… pic.twitter.com/w5Fy6ZqRrk
2018-03-23 04:53:13シヤトル朝日は来日に先んじて、渡米&遠征中の早大野球部と7月10日に対戦しているもよう。 そして10月には函館に渡っているようなので、大隈邸での写真はやはり9月頃のものですかね。海軍さんも第二種軍装だし。9月の新聞を漁れば記事が出ていそうな気もしてきた。
2018-03-23 05:12:49というわけで海軍さんの方は兵学校19期クラスヘッドの百武三郎説を推します。自分の手持ちの中では百武さんが中将になられた年がわからなかったのですが、同期の谷口尚真が大正10年12月、20期の斎藤七五郎が11年に中将になっているので、「写真が撮られた大正10年に少将」はギリギリ条件に合いそう。
2018-03-23 01:08:32@simasyodes @takamine108 1910年、ではなくて1910年代、ということだから1910年~1919年の間のどれかということでしょう。だから1914年(大正3年)は該当する。 ただし大正3年は大隈が首相で、暢気にやきうを見ていられたか、という問題があるわけで。
2018-03-26 19:12:45