- simasyodes
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2018年3/15.16.17.20.21.22沖縄タイムスの連載記事「構作隊の街ー大宜味大工の戦後」はいい記事でした。沖縄の戦後復興を支えた「大宜味大工」逹の足跡にスポットが当たっていた。
2018-03-24 16:59:57大宜味大工とは? 沖縄本島北部に位置する大宜味村は戦前から「腕のいい」大工が多く、村外へ出稼ぎに出る者が多かった。大正14年建設に携わった大宜味村役場は県内に残る貴重な「戦前からの鉄筋コンクリート」として今も残り役場は移転したが、村史編纂室として現役。2016年国指定重要文化財となる。 pic.twitter.com/xJDRJ4rgTg
2018-03-24 17:00:15大宜味大工の人々が戦後多く住んだ「岡野区」(現在の那覇市安謝 マックスバリュ安謝近辺 赤い印は岡野区自治会)1955年には同地区1291人中大宜味も含む、北部出身者が485人になっていた。 pic.twitter.com/axfMmAyQqJ
2018-03-24 17:01:23「岡野区」とは琉球政府主席松岡政保から「岡」1字とった。松岡が沖縄民政府(住民行政組織)で工務部長を務め、この地域出身だったことに由来する。彼は「工務部構作隊」として当初は米軍キャンプが主だが戦災で家を失った人々の家や橋、学校、病院などの建築に携わり沖縄の復興を支えていく。
2018-03-24 17:01:431945年から1950年まで活動した「工務部構作隊」はその任を終え、解散。しかし大宜味大工の人々は民間の建築業に移り沖縄の戦後建築史に数々名を残していく。(解散の辞の新聞記事も残っていた)
2018-03-24 17:03:271972年本土復帰後は本土の建築コンサルの指導で、地元大工を切り離した。大宜味大工は「徒弟制」で棟梁が弟子を育て上げ、技術を受け継いでいったがそれが途絶えた。「沖縄の良さが失われ人も技術も育たない」との指摘もある。
2018-03-24 17:03:44。前述の「大宜味村役場」建築に携わった大宜味大工の棟梁金城賢勇さんの次女渡久地克子さんは建築事務所「Kapok」を経営、事務所がある岡野区から若い人々へ戦後復興を支えた大宜味大工の精神を伝えている。(了)
2018-03-24 17:04:214/14更新
沖縄タイムスの記事に反響があり、岡野地区住民だった人から読者投稿があった。3/27
沖縄の戦後復興を支えた大宜味大工 - Togetter togetter.com/li/1211691 記事整理してたら追加あった。 pic.twitter.com/18Fw30itSH
2018-04-15 07:54:04