野々村先生の福島美味紀行番外編:戊辰戦争後の会津松平家の歴史秘話

「野々村先生の福島美味紀行:会津歴史漫遊記」https://togetter.com/li/1218013 前段の関連まとめです。
1
野々村 @ye2cun

@parasite2006 …亀岡高夫議員の甥の小倉偉民氏が養子となり地盤を引き継いだのが亀岡偉民議員です。 以上、私が調べた範囲での相関図ですが、㈱アルファ通信云々よりも、仮名にして小説にでもした方が面白そうな程度の憶測に過ぎません…。

2014-06-21 14:47:29

松平容保の子孫たち:家督を継いだのは次男でなく七男だった

野々村 @ye2cun

福島市が納豆購入額全国1位になったそうですが、第1回参院選で福島地方区から選出され初代議長を務めた松平恆雄(容保六男、秩父宮妃勢津子実父)が大の納豆好きであったことが、『会津こぼれ草』(1952年)に収録された放送原稿『人間松平恒雄』の全21頁のうち2頁を割いて書かれています。

2015-02-01 02:12:15
野々村 @ye2cun

当時駐米大使だった松平恆雄(容保六男)の長女節子(後に勢津子と改字)を秩父宮妃にとの内命を受けて渡米した樺山愛輔伯爵(白洲正子実父)が、承諾を得られずに帰国した際の貞明皇后の御言葉。 「民間では、一度断られたら、それで引き退るものなのですか」 以降交渉続行、成婚に至る。

2015-02-08 00:12:24
野々村 @ye2cun

秩父宮との成婚に際し、貞明皇后(節子、さだこ)との同字を避けて、皇室と縁の深い伊勢の“勢”と、会津の“津”に因んで勢津子と改字したのには、深い郷土愛を感じるが、自身の長女にずばり会津子と名付けた健雄(容保次男)には敵わないと思う。

2015-02-08 00:21:20
野々村 @ye2cun

飯豊山のひょろ長い福島県境が確定した時(明治40年)の飯豊山神社の社司は、松平容保次男、健雄。 pic.twitter.com/i6IkhlMc76

2015-02-07 23:15:24
拡大

この珍妙な形の県境はあまりにも有名で、いわれについてはWikipediaを始めとする解説が複数出ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/飯豊山神社
http://yamayama.at.webry.info/200806/article_1.html
実際に現地を訪問し、福島県をまたいで新潟県と山形県に足をかけてみた人のレポートはこちらです。
http://portal.nifty.com/kiji/150826194388_1.htm

野々村 @ye2cun

お題『納涼』から「夏の盛りの一時の涼」のような楽しげな情景を想像していたのに、「い」だか「ハ」だか分からない一文字が、変体仮名の「は」で助詞の「ば」で、123年前のその短歌に満ちる孤独を知るのに3日を要し、華族の家を出た当時19歳の青年の、心の内を垣間見た思いがしている。

2015-02-08 22:56:30
野々村 @ye2cun

『納涼』 墨田川 月待ちをれば 吹く風も 身にしむばかり さ夜ふけにけり 明治25年 宮橋健雄 ※墨田川は現在の隅田川の旧称 ※作者は國學院大學在学中の容保次男・松平健雄。当時、姓が「宮橋」となっている。

2015-02-08 23:12:28

國學院大学は神職の養成所として創立された皇典講究所を母体とする大学で、現在も全国に2つしかない神社本庁の神職の資格が取れる神職課程を持つ大学の一つです(もう一つは皇学館大学)。

野々村 @ye2cun

松平容保次男、健雄は、会津総鎮守伊佐須美神社宮司の任を離れた後も、(当時の)会津電力の取締役を務め、故郷に明かりを灯し続けていました。 画像は、東京の自宅で健雄が亡くなった翌日(昭和2年7月20日)、訃報を伝える夕刊会津日報の記事。 pic.twitter.com/sRlxgFbdLz

2015-03-13 22:39:51
拡大

松平健雄は明治33年(1900年)から大正5年(1916年)まで伊佐須美神社の宮司を務めていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊佐須美神社
その前は明治29年(1896年)から33年(1900年)までの4年間静岡県の久能山東照宮宮司を務め、在任中に宮橋姓から松平姓に戻ったとあります。
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12156634720.html

野々村 @ye2cun

徳川家康400回忌 命日に御例祭 NHKニュース nhk.jp/N4Io4DUT 司祭を務めた徳川恒孝さんは会津松平家の分家の出ですが、容保の次男 健雄は、この久能山東照宮の第4代宮司でした。 宮司就任当時は松平健雄ではなく宮橋健雄でした。

2015-04-17 21:30:23
野々村 @ye2cun

松平容保次男 健雄は、宮橋みつ という女性の養子になっていました(後に解消)。 これについては、華族会館を前身とする現在の霞会館が発行した旧華族家系図の公式本とも謂える『平成新修旧華族家系大成』にも記載があります。

2015-04-17 21:32:12
野々村 @ye2cun

この 宮橋みつ という女性が誰なのか、調べてもなかなか分かりませんでした。 『人事興信録』第2版(明治41年)に、二条公爵家の利敬が 宮橋みつ の養子となったとの記載があるのですが、『平成新修旧華族家系大成』では、二条利敬は慶光院盈子(みつこ)の養子となったと記されています。

2015-04-17 21:33:12

Wikipediaの解説
https://ja.wikipedia.org/wiki/二条斉敬
によれば、二条利敬の父二条斉敬(にじょう なりゆき、文化13年9月12日(1816年11月1日) - 明治11年(1878年)12月5日)は日本史上最後の関白で、死後は養子(斉敬の従弟の基弘)が家督を継いでいます。実子はいずれも側室との間に生まれていて、分家したり(四男正麿、男爵に)他家の養子になったりしています。利敬は宮橋家の養子となり、後に慶光院と改姓したとあります。宮橋→慶光院の改姓が行われたのは明治36年(1903年)のことだったそうですから
http://shinden.boo.jp/wiki/慶光院
利敬が養子になったのは明治36年より前だったと推察され、おそらく松平健雄が宮橋家との養子縁組を解消した後(久能山東照宮宮司に就任した明治29年=1896年以降で伊佐須美神社に移った明治33年=1900年以前のいつか)で代わりに養子に入ってきたのが二条利敬だったのだと思われます。

幕末維新の伏見宮家(北白川宮能久親王)、会津松平家(松平容保)、二条家(二条斉敬)をつなぐ共通項は、尊王攘夷運動や明治新政府(結局のところ長州藩)と対立する陣営にいたことです(能久親王と松平容保は奥羽越列藩同盟でつながり、松平容保と二条斉敬はともに孝明天皇の信頼を受けました)。後で述べるように、伊勢神宮とつながりの深い尼寺、慶光院の最後の院主が伏見宮家の娘で、士族宮橋家を立てて存続のため男性を養子に求めるとしたら、共通項でつながっている家から探すのは順当な判断です。会津松平家(武家)→二条家(公家)という養子のすげ替え(時期は明治29年と33年の間のいつか)が行われているのは、最初の養子はいずれ公家出身の適当な養子が見つかるまでのつなぎと割り切っていたのかも知れません。ちなみに2人の養子の生年は
松平健雄:明治6年(明治25年に19歳だったことから逆算)
二条(慶光院)利敬:明治8年
https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11843770845.html
宮橋家が士族に編入された明治4年にはどちらもまだ生まれていません。

野々村 @ye2cun

慶光院は伊勢の尼寺で、歴代の上人が荒廃した神宮の復興に尽力する等の功績を残しましたが、明治維新後の廃仏毀釈により寺も廃されました。 この時、同寺に遣わされるも年若いことを理由に落飾しないままで居たのが慶光院15世 盈子(みつこ)です。

2015-04-17 21:33:53

慶光院が廃寺になったのは明治2年(1869年)4月のことだそうです。
http://shinden.boo.jp/wiki/慶光院
これと同時に慶光院第15世 盈子は「宮橋」姓を名乗ることになり、その後明治4年(1871年)7月には士族に編入されます。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/3798
さらに明治36年(1903年)には裁判の末「慶光院」姓を取り戻します。
https://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/46217410.html

野々村 @ye2cun

慶光院は廃仏毀釈により寺号を廃し、伊勢の宮橋に因んで『宮橋』と改称し、士族に編入、男子を以って相続するとされました。 つまり、『宮橋みつ』は『慶光院盈子(みつこ)』のことで、松平容保次男 健雄が、その養子となっていたということです。

2015-04-17 21:34:39
野々村 @ye2cun

『宮橋みつ』が『慶光院盈子(みつこ)』だということは分かりましたが、では盈子(みつこ)は誰なのでしょうか? 慶光院が寺号を廃して宮橋と改称し士族に編入される際、度会県(現 三重県)が太政官に送った公文書が残されています。『太政類点』。

2015-04-17 22:22:15
野々村 @ye2cun

『太政類点』(明治4年)には宮橋家の由緒が書かれており、渡会県(現 三重県)が太政官に上げた報告として「当主盈子(みつこ)儀は伏見宮の末女にて」(と盈子が言っている)と書かれています。 もしこれが事実なら、盈子(みつこ)は伏見宮邦家親王(当時の当主)の王女ということになります。

2015-04-17 22:23:34

伏見宮邦家親王(享和2年10月24日(1802年11月19日) - 明治5年8月5日(1872年9月7日))は伏見宮家第20代および第23代。こんな複雑なことになっているのは先代だった父の死により一旦家督を相続したものの(これが天保12年=1841年)、翌年(天保13年=1842年)息子の一人に家督を譲って隠居落飾し、その22年後(元治元年=1864年)に還俗を許されて再び家督を相続したためです。
Wikipediaの伏見宮家系図
https://ja.wikipedia.org/wiki/伏見宮
によれば、邦家親王には息子のうち成人した人が全部で10人もおり、2人を除いてそれぞれ新しい宮家を創設しました。奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された北白川宮能久親王は第9王子ですが、成人した息子としては上から5番目に当たります。

野々村 @ye2cun

『太政類点』の記載 ※焼失後再編纂 「当主盈子儀は伏見宮の末女にて」 宮内庁書陵部所蔵『宮橋家由緒書』の記載 「当主盈子儀実は伏見宮の末女にて」 後者は前者の原本と思われ、記載内容はほぼ同じですが、後に再編纂された『太政類点』では、「実は」の「実」の一文字が欠けています。

2015-04-17 22:26:14
野々村 @ye2cun

また、同じく宮内庁所蔵の『華族系譜 会津松平家』には、容保次男 健雄が養子に出たことは記されていません。 皇統譜(皇室の戸籍に相当)には、伏見宮家に宮橋みつ=慶光院盈子に該当する人物の記載はありません。

2015-04-17 22:29:38
野々村 @ye2cun

松平容保次男 健雄が養子となった 宮橋みつ が 慶光院盈子 で、伏見宮邦家親王の王女ということであれば、健雄は、奥羽越列藩同盟の盟主であった能久親王(伏見宮邦家親王第9王子)の甥であったということです。 また、宮橋みつ(慶光院盈子)は香淳皇后の大叔母に当たるということになります。

2015-04-17 23:24:33