#西郷どん 感想+補足まとめ 第二十五回「生かされた命」往路で寺田屋騒動、復路で生麦事件。帰国したら薩英戦争。頑張れ久光!

久光・小松・大久保の苦労と、どこでもモテてる吉之助の対比がだんだん楽しく。 大河レビューしています note https://goo.gl/6v3uEs ブログ http://hansu-aid.xyz/ モーメント https://goo.gl/RvuCo8
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町田 明広 @machi82175302

久光一行が江戸から京都に向かう道中、イギリス商人を殺傷した生麦事件(文久2年8月21日)が起こった。その後、久光はイギリス艦隊による報復攻撃に備えるため、鹿児島から出ることはなかなか叶わず、中央政局からは距離を置かざるを得なかった。#西郷どん

2018-07-01 20:53:55
町田 明広 @machi82175302

そのため、要請された京都守護職(松平容保のみ就任)に就けず、また、藩論を航海遠略策から即時攘夷に転換した長州藩の暴走を阻止することができなかった。そして、文久3年(1863)7月2日、生麦事件が原因となった薩英戦争が勃発した。#西郷どん

2018-07-01 20:54:07
町田 明広 @machi82175302

薩摩藩が通商条約交渉を持ち出し、戦闘には及ばないと油断していた英国艦隊に損害を与えたものの、鹿児島は一面火の海になり、列強との力の差を痛感した久光は、イギリスとの講和を急いだ。講和談判の際、薩摩藩は軍艦購入などを持ちかけており、これを契機にイギリスと急接近を遂げた。#西郷どん

2018-07-01 20:56:35
町田 明広 @machi82175302

一方、中央政局では朝彦親王・会津藩と結んだ高崎正風らの策動で、八月十八日政変を起こし、三条実美ら即時攘夷派の廷臣および長州藩を京都から追放した。長州藩がいなくなった京都に乗り込んだ久光は、朝廷・幕府どちらからも絶大な信頼を勝ち取り、まさに人生のクライマックスを迎えた。#西郷どん

2018-07-01 20:56:49
町田 明広 @machi82175302

朝政参与を画策し、文久4年(1864、2月20日に元治元年と改元)正月に、一橋慶喜・松平春嶽・松平容保・山内容堂・伊達宗城らとともに任命された。いわゆる、参与会議である。あわせて、二条城での老中御用部屋入りを許され、久光は念願の幕政参画も実現した。#西郷どん

2018-07-01 20:57:08
町田 明広 @machi82175302

しかし、参与会議の実態は単なる朝議の諮問機関に過ぎず、横浜鎖港をめぐる対立などから、久光は慶喜と激しく対立し、老中御用部屋入りも形式に過ぎず、機密にあずかることは叶わなかった。なお、対立前の数か月、両者は超蜜月にあり、ドラマのように慶喜が久光を芋呼ばわりしていない。#西郷どん

2018-07-01 20:57:34
町田 明広 @machi82175302

久光は慶喜と対立し、しかも、孝明天皇が嫌う山階宮を還俗させようと、朝廷に無理強いをしたため、肝心の天皇とも疎遠になってしまった。長州藩に対する処罰問題も遅々として進まず、この状況に見切りをつけた久光は帰藩することになるが、西郷の召還はその直前にあたる。#西郷どん

2018-07-01 20:57:45
町田 明広 @machi82175302

本日のドラマの進行は激流だった。再来週、どこからスタートするか分からないが、文久2(1863)年後半から元治元年(1864)春まで、およそ2年間があっという間であったが、この間の将軍上洛、長州藩の攘夷実行、八月十八日政変、朝政参与(参与会議)などはもう出てこない??#西郷どん

2018-07-01 20:58:03
町田 明広 @machi82175302

西郷の召還・赦免について、久光は当初激怒したものの、「左右みな賢なりといふか。然らば即ち愚昧の久光獨り之を遮るは公論にあらず。宜しく太守公(藩主茂久)の裁決を請ふべし」(『大西郷全集』)と述べ、久光はくやしげに煙管を噛みしめたため、歯痕が残ったと伝えられる。#西郷どん

2018-07-01 21:02:56
町田 明広 @machi82175302

また、久光は西郷召還の経緯について、上京後の日記である「久光公上京日録」においては、一切言及しておらず、唯一、「吉井仲助(友実)・西郷信吾(従道)・福山清歳三人、大島吉之助(西郷)赦免一条ニ付帰国申付候事」との記載だけである。信吾だけが迎えに行ったのではない。#西郷どん

2018-07-01 21:03:11
町田 明広 @machi82175302

一方で、久光は藩主忠義には書簡を発して、西郷の赦免許可を了解したが、そもそも許し難い者であると苦々しい心情を吐露した。しかし、藩士が騒々しく困った次第なので、吉井他2名に沖永良部島行きを命じたと説明する。#西郷どん

2018-07-01 21:03:46
町田 明広 @machi82175302

そして、久光は西郷が悔悟して大いに国事に尽力するのであれば、大いに結構であると期待を寄せてはいるが、その反対になればもっての外で、薩摩藩が乱れることは必定であり、まさに治乱の境であると最大限の憂慮を示した。#西郷どん

2018-07-01 21:04:05
町田 明広 @machi82175302

西郷への期待を認めながらも、久光にはそれを遥かに超える不信感が継続しており、その後も久光の西郷への監視の目は厳しく、通説のように、西郷が縦横に中央政局において国事周旋を行えた訳ではなかった。#西郷どん

2018-07-01 21:04:20
町田 明広 @machi82175302

一般に、久光の退京によって、元治元年の春以降、西郷と大久保が藩政を掌握し、倒幕にまで持ち込んだとされるが、事実は全くそうではなく、西郷といえども、久光や筆頭家老・小松の下知の下に、国事周旋を実行することになる。このあたり、西郷が主人公なので、ドラマでは厳しいか。#西郷どん

2018-07-01 21:04:34
町田 明広 @machi82175302

西郷は京都においては、自らの判断で動くことも余儀なくされたが、久光の許容範囲であるかどうかを常に推し計っており、久光の警戒の目を常に気にしながら行動を採ることに専念した。西郷は時に逸脱して失敗をしているが、これは西郷の意思にかかわらず、本来の豪胆さがつい表れた時である。#西郷どん

2018-07-01 21:06:09
町田 明広 @machi82175302

ところで、喜界島に流刑中だった村田新八も伴って鹿児島に帰還したが、この時、西郷の独断で赦免状が出ていない村田を強引に連れ帰ったと諸書にあるが、さすがにこの段階で、西郷にそんな力はなかった。村田にも赦免状は出されており、西郷独断説は、後世の西郷英雄史観による創作である。#西郷どん

2018-07-01 21:06:42
町田 明広 @machi82175302

ドラマでは、島津久光は相変わらず50年目の評価のまま描かれているが、久光は不世出の政治家であり、ちょっと気の毒な気もするが・・。では、改めて生麦事件・薩英戦争について少しだけ。#西郷どん

2018-07-01 21:07:00
町田 明広 @machi82175302

殺害されたリチャードソンは、イギリスに帰国する途中、日本観光で滞在。横浜在住の商店勤務のクラーク、生糸商人マーシャル、香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人とともに、騎馬で川崎大師に向かっていた。#西郷どん

2018-07-01 21:11:07
町田 明広 @machi82175302

行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のリチャードソンら4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結果として脇に寄ることもできずに行列の中を逆行して進行していた。#西郷どん

2018-07-01 21:11:23
町田 明広 @machi82175302

鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまでリチャードソンら馬を乗り入れてしまい、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に事態の深刻さを認識したが、引き返そうとその場で堂々巡りしたため、奈良原喜左衛門および他数人の藩士が抜刀して斬りかかった。#西郷どん

2018-07-01 21:11:38
町田 明広 @machi82175302

リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの深手を負い200メートルほど戻り落馬、追いかけてきた海江田信義に止めを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であった。#西郷どん

2018-07-01 21:11:54
町田 明広 @machi82175302

東禅寺事件などそれまでに起こった攘夷殺傷事件とは違い、個人的な行為ではなく、大名行列の供回りの多数が一斉に抜刀した稀有のケースだった。当時の武士が主君を守ろうとする行為は至極当然であり、切りつけるということは特別なことではなく、当たり前のことをしたと理解すべきであろう。#西郷どん

2018-07-01 21:12:55
町田 明広 @machi82175302

久光が直接惨殺を命じた記録は一切なく、藩士のとっさの判断で起こった偶発的な事件で、事後、久光がこの行為を咎めなかったことも、封建領主としては何ら不思議ではない。一方で、久光は面倒な事態に至ったとの認識はあったと推測できよう。なお、久光の駕籠横に居て対応したのは松方正義。#西郷どん

2018-07-01 21:15:59
町田 明広 @machi82175302

保土ヶ谷に宿泊した島津久光一行への報復攻撃を、横浜居留民の多くが支持したが、英国代理公使ジョン・ニールは極めて冷静であり、現実的な戦力不足と全面戦争に発展した場合の不利を説いて鎮静させ、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いたため、局地戦または戦争に至らなかった。#西郷どん

2018-07-01 21:16:24
町田 明広 @machi82175302

薩摩藩側では、小松帯刀が冷静に対応し、奈良原喜左衛門・海江田信義の神奈川・横浜への夜襲の強請を斥け、翌日以降、薩摩藩一行は幕府の制止を無視して上京を継続する。ニールと小松がいなければ、最低限、局地戦、場合によっては日英戦争もあり得たと考える。#西郷どん

2018-07-01 21:16:42
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